戦国時代でスカウトしたい「馬場信春」
画像:松本楓湖・画「馬場信春」(信玄公宝物館)
武田家の歴代当主に仕え、武田家の存続をのために命を捧げ男気溢れる最期を遂げた熱き猛将、馬場信春。武田四天王の一人に数えられ、生涯70戦を超える合戦において一度も傷を負わなかったという戦国サイボーグです。
生没 | 1515年生まれ 1575年死去 |
出身 | 甲斐(山梨県) |
主君 | 武田信虎から武田信玄、最後は武田勝頼 |
親族 | 父:教来石信保 息子:馬場昌房 |
特徴 | 武田家の筆頭家老 戦国サイボーグ とにかく強い |
腕っぷしが強く荒々しい一面もありましたが、根は真面目で律義、一途に主君を支える忠義の武将であったことが史料や文献で確認されています。武田信玄の父である信虎の代から仕え、勝頼の時代には筆頭家老として武田家を支えました。
61歳で生涯を終えましたが、最期まで武田家の存続を願い、その覚悟を見せた長篠の戦いは信春にとって重臣としての集大成とも言える最期でした。
さて、信春の生い立ちを簡単に振り返ると、馬場という苗字は後から改名したときの名前であり、甲斐の教来石村で生まれたことから幼名は教来石景政です。その後、同族の馬場氏の名を継ぎ、馬場信春と名乗るようになります。
教来石も馬場氏も武田家に仕える一族で、甲斐(山梨)と信濃(長野)の国境近くを守備する「武田衆」に属しており、この時点では家臣ではなく配下の一族または豪族という位置づけです。
1531年に信濃の大名である諏訪頼満が甲斐に攻めてくると、諏訪氏との戦いで武功を挙げた信春は武田家の親衛隊に採用され、正式に信虎の家臣となりました(推定、信春17~18歳)。
そして、仕官すると直ぐに武田家の武将・小幡虎盛(武芸に秀でていた)から兵法の基礎や応用などを学んでいます。
徳川の中核へと昇進
画像:歌川芳虎・画「徳川四天王」(東京都立図書館)
めきめきと信春は頭角を現し、名だたる家臣のなかでも群を抜いて有能で腕っぷしも強く、しかも冷静沈着なうえ知性を兼ね備えているので一躍トップクラスの武将となります。
そして、信虎に仕えて10年、信春の分岐点となる大事件が起きました。
1541年、武田の家臣らは新たに信玄を当主に据えるため、信虎を甲斐から追放する計画を実行したのです。このとき、信春は信玄を支援し、重臣らと共に計画を遂行したとされています。
計画は見事に成功し、信玄が当主となりました。それに伴い信玄は信虎と揉めて疎遠になっていた馬場氏との関係を修復するために、信春に馬場氏の当主を継がせ、これによって信春は教来石から馬場へと性が変わりました。
信春が馬場の姓になったのは信玄が当主になったタイミングと同じだったんですね。また、馬場の当主となった信春に馬50騎を与え、騎馬武者の大将に任命しています。
武功を挙げると、さらに70騎(計120騎)が与えられ信濃の牧島城の城主へと昇進。そして、信玄が信濃に侵攻する際、信春は全ての軍事指揮権(信玄の代理で軍事の指揮を行う)を許されたそうです。
こうなると、もはや単なる家臣ではなく武田家の中核です。のちに信玄は信春について「一国を束ねる主の器である」と高い評価を示しており、有能な重臣であったことが分かります。
家臣の模範のような男
画像:馬場信春の肖像(長篠城址史跡保存館)
信春は硬派で筋が通らないことは嫌いな性格。その律義な人間性を物語る、こんなエピソードがあります。
第四次・川中島の戦いが開戦する前(1560年)、信玄の同盟国であった今川義元が他界。衰えていく今川家との同盟を一方的に解消した信玄は、1568年に今川家の領土へ侵攻し、今川家の後を継いだ氏真は逃亡。
今川家の居城である駿府城(今川館)に火を放つよう命じますが、その前に信玄は部下に命じて城内の財宝を持ち運ばせようとしました。
これを知った信春は部下たちに「敵の財宝を盗むなど盗賊のすること。武田は盗人だと世間の笑い者になるからヤメろ。敵であろうと礼儀と敬意を忘れるな!」と厳しい口調で叱りつけました。
「でも信玄殿の命令ですよ」と戸惑う部下たちに、信春は「俺が責任取るから財宝は置いていけ」と言い、次々と財宝を火の中に放らせたとのこと。のちに信玄は、「信春の言う通りにしてよかった」と感謝したそうです。