「絶対は絶対にない!」人生の教訓にしたい戦国武将の名言8つ
画像:太平記合戦(歌川芳員作-演劇博物館)
ときは戦国。北条早雲の下剋上が発端となり、尾張の織田信長が本格的に天下統一を目指して動き出し、各地で内乱や合戦が繰り広げられた決死の時代です。
越後では上杉謙信、山梨には武田信玄、尾張では信長や秀吉が戦に明け暮れ、足利義昭の上洛を経て転換期を迎えるなど、それぞれが思惑と野望を胸に命を懸けて戦った乱世。
そんな時代を勇ましく生き抜いた男たちの名言を今回は紹介したいと思います。名言は偉人が遺した足跡であり、そこから様々な教訓を学ぶことができます。
たとえば、迷ったときや挫けそうになったときなど、道を切り開くヒントになるかもしれません。また、そのときの心情や人によって捉え方が違うのも名言の醍醐味。ぜひ、参考にしてみてはいかがでしょうか。
上杉謙信 「人の上に~」
画像:芳年武者旡類「上杉謙信入道輝虎」(月岡芳年作-東京都立図書館)
上杉謙信(上杉輝虎)は越後の大名で、軍神や越後の龍と恐れられた武将です。21歳で長尾家の跡を継ぎ、内乱で荒れていた越後を22歳で平定しました。
なんといっても驚くべきは合戦の勝率。川中島の戦いは勝敗がついていないので除外しますが、そのほかの合戦については負け知らず。軍神の名に恥じない勇ましい武将です。
越後の守護代として、あるときは同盟国のために合戦に明け暮れ、家臣に裏切られながらも義を重んじ戦った熱い男でした。また、一方では商売の才覚もあったようです。
敵国の嫌がらせにあって塩が不足していた武田信玄の領地・山梨に塩を売ったり、越後で生産していた布を「越後上布」とブランド化し、専属的に販売する権利を得たりするなど商売のセンスも垣間見えます。
そんな上杉謙信の名言は、
人の上に立つ人間は深い思慮をもって発言すべき。
決して軽率な言葉は発してならない
つまり、言葉を選んで口にしなさい、という意味。「言葉を選ぶ」とは、相手の立場になって深く思慮して(よく考えて)から発言することが大切で、言葉遣いや話し方の問題だけではありません。
軽率な一言が誰かを傷つけたり思わぬトラブルを招いたりすることを謙信は身をもって経験しており、いかに言葉が重要なものかを知っていたのですね。とても参考になる名言です。
武田信玄 「人は城~」
画像:太平記英勇伝4「武田大膳大夫晴信入道信玄」(落合芳幾作-東京都立図書館)
腕っぷしの強い謙信が越後の龍なら、武田信玄は「甲斐の虎」と恐れられた知将です。真田幸村の父・昌幸が仕えていた武将で、昌幸も戦術や合戦の勝ち方を信玄に教わったと言われています。
信玄は人心掌握が上手く、役職や立場に関係なく意見を取り入れたり評価したり、農民や武士など身分の垣根を越えて接していたことから「お館様(おやかたさま)」と呼ばれ親しまれていました。
ちなみに、信玄が生涯で負けた合戦は2回。武田の騎馬隊や兵法を用いた戦の名手でしたが、私生活では父親の追放や長男との対立など、血縁関係のトラブルに悩まされた生涯だったようです。
信玄で特筆すべきは土木の技術。農業発展のために築いた信玄堤は、洪水の被害や川の氾濫を防ぐ成果を挙げ、現代でもお館様の治水工事として山梨では語り継がれています。
そんな信玄の名言は、
人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり
人こそが城で石垣で堀であるから、部下の育成や優秀な人材の協力を得ることが合戦のみならず、組織の発展や地域への貢献につながるという信念をもっていた信玄。
そして、情けをかければ人の心に届いて協力を得られるが、相手に恨みをもてば敵対を生むだけで何の徳も得ない、そういった言葉です。部下をもつ上司は参考にしたい言葉ではないでしょうか。
織田信長 「絶対は~」
画像:大日本六十余将「尾張織田上総介信長」(歌川芳虎作-演劇博物館)
戦国時代といえば、織田信長を一番に思い浮かべる人も多いでしょう。荒れ狂う戦国のなか、本格的に天下統一を目指した男で、豊臣秀頼や徳川家康など豪華な面々を率いたカリスマです。
ほかにも、柴田勝家や毛利元就、前田利家や丹羽長秀、明智光秀など、誰もが知る武将をまとめ上げた元祖ですね。戦国時代、天下統一の基礎を築いたリーダーと言っても大げさではありません。
桶狭間の戦いや足利義昭の上洛援護、長篠の戦いや信長包囲網といった合戦だけでなく、楽市楽座や関所の廃止を実施し、商人の生活に良い変化を与えたことでも有名な武将です。
最期は本能寺の変で部下の明智光秀に討たれ死去しますが、信長の遺体が見つかっていないことや暗殺の黒幕説が浮上するなど、何かとミステリアスなウワサが囁かれる人物ですね。
そんな信長の名言は、
絶対は絶対にない
シンプルな言葉でありながら、実は2つの意味をもつ名言。一つは、「不可能と考える難題にも突破口はある」、もう一つは、「過信すると隙が生まれ油断が命取りになる」という意味。
チャレンジ精神が強く、しかし、用心深い一面ももっていた信長らしい言葉です。常に考えることの大切さや、慢心は成長を止めるといった思慮深い教訓が詰まった名言と言えます。
豊臣秀吉 「戦わずして~」
画像:太平記英勇伝100「豊臣秀吉公」(落合芳幾作-東京都立図書館)
戦国一の出世人といえば、豊臣秀吉ではないでしょうか。百姓の息子に生まれ、あの手この手で信長に近づき織田家の雑用係から武将へ出世、やがて滋賀の地を与えられ大名にまで成り上がった苦労人。
そして、信長の死後は天下統一を成し遂げ、現代で例えるなら誰もが認めるスーパーサラリーマンですね。信長の無理難題に応え、命を張ってでも課題を達成しようとする姿勢には脱帽です。
金ヶ崎の退き口や墨俣一夜城など、数々の功績は有名。それ以外にも、「薪のコストを下げろ」と言われれば仕入れルートを見直し、流通そのものを変えて低単価で薪を確保するなど尽力します。
村に転がっている枯れ木を利用し、さらに、城下の敷地に植林を行い、自給自足で薪を手配できるようにシステムを構築。信長にとって体を張るだけの命知らずではなく、頭もキレる有能な部下だったようです。
そんな秀吉の名言は、
戦わずして勝ちを得るのは良将の成す術である
馬鹿正直に体当たりするだけが“戦い”ではなく、知恵やプランを練って多方向から攻めることも大切。つまり、「パワーで押し通して勝ち負かすだけが戦いではない」という意味。
秀吉は合戦において、互いの被害を最小限に抑えるために「兵糧攻め」や「水攻め」など、試行錯誤しながら敵をギブアップさせています。現代のセールスや交渉でも見習える技ではないでしょうか。
徳川家康 「滅びる~」
画像:本朝智仁英勇鑑1「徳川内大臣家康公」(月岡芳年作-東京都立図書館)
言わずと知れた江戸幕府の開祖、徳川家康。秀吉の死後、豊臣政権から離脱し、関ヶ原の戦いで石田三成に勝利すると15代にわたり続く徳川将軍の屋台骨を築きました。
また、大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼし、正真正銘の天下統一を成し遂げた初の人物でもあります。家康の人生を一言で表すなら、とにかく「我慢」の連続。
幼少期から青年まで2度の人質生活を送り、やっと解放されたと思えば地元に帰ると愛知では信長が合戦に明け暮れている状況。清州同盟を結び、信長の余力として過ごしました。
信長の死後、「よし!今度は俺が・・・」と思いきや、秀吉に一歩先を越されて幹部として豊臣家に仕えることになります。そして、関ヶ原の戦い。根回しや策略など、我慢の集大成で勝ち取った勝利でした。
そんな家康の名言は、
滅びる原因は自らの内にある
家康は、慎重な状況判断ができるように緊張や用心深さをもち、気を緩めなかったそうです。家康の生涯で最大のピンチ、それは三方ヶ原の戦いで武田信玄に追い詰められたとき。
死を覚悟して脱糞したなんて逸話もあるほど。あいつには勝てない・・・、と恐怖に怯えていた矢先、信玄が病死します。続くように上杉謙信も病死。この出来事に徳川の家臣たちは大喜びでした。
しかし、家康は危機が去って喜ぶ部下たちに次のような注意を促しました。
「何が、そんなに嬉しいのか。私は信玄の死を素直に喜べない。信玄という強者が存在していたから我々は緊張し、備えを怠ることなく注意深く過ごしてきた。
用心する相手がいなくなった今こそ、これまで以上に気を引き締めなければならない。鎌倉を滅ぼすのは鎌倉であり、平氏を滅ぼしたのが平氏であったように、もっとも恐ろしいのは自分の中にある「油断」。
失敗のほとんどは自分の中にある油断が招くことであり、それは気の緩みによって生まれる。滅びる原因は自らが作り出す油断。滅びる原因は自分の内にあるのだ」
なんとも感慨深い言葉ですね。戒めや教訓として、ぜひ覚えておきたい名言です。
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