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戦国史きっての"嫌われ者"石田三成は本当に嫌われていたのか?

戦国史きっての"嫌われ者"石田三成は本当に嫌われていたのか?


画像:石田三成の肖像(東京大学史料編纂所)

そんなつもりじゃないのに"誤解"されやすい人っているんですよね。真面目で一生懸命になると周りが見えなくなって、本人は悪気がないのにイラッとさせたり嫌悪感を与えてしまったり・・・そうやって気づかないうちに損している人。

おそらく「石田三成」も、その一人だと思うんです。秀吉に忠実で堅実に仕事と向き合う姿勢は尊敬するけど、周囲との調和や協調性がなくて配慮に欠けるところなんか、まさに誤解されやすい人の典型的な特徴。

そして、いつしか三成は戦国史を代表する"嫌われ者"になってしまったわけで・・・。もちろん、本当に嫌われていたかは断言できませんが、三成のことを快く思っていなかった武将は多かったようです。

あげくの果てには三成を"無能"呼ばわりするようなドラマや映画もあるほどですし、なぜ、そこまで石田三成が嫌われ者になったのか、今回は史実を振り返りながら"三成の誤解"を解くヒントを探ってみたいと思います。

石田三成と秀吉


画像:秀吉と三成「出会い」の像(長浜駅前)

1560年、近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)で生まれた三成。父の石田正継は浅井長政に仕えていたと言われ、三成が秀吉に仕えたのは14歳の頃とされています。二人の出会いが語られる「三献の茶」は有名ですよね。

滋賀県の観音寺を訪れた秀吉が坊さんにお茶を頼んだところ、当時、寺の小僧をしていた三成が三杯のお茶を出しました。これが世に言う「三献の茶」です。

喉の渇きを潤すために一杯目は茶碗いっぱいに注いだ「ぬるい」お茶を出し、二杯目は半分の量で「少し熱いお茶」を、三杯目は香りと安らぎを楽しんでもらうために小さな茶碗に「熱いお茶」を少し注いで出したそうです。

行き届いた心遣いに胸を打たれた秀吉は、すぐさま三成を自分の世話役として手厚く迎えました。
出典:天下人を虜にした心配り(月間朝礼)

 

そして、三成の名前が大々的に登場するのは一柳家記で、この史料には1583年の賤ヶ岳の戦いにおいて柴田勝家の軍を偵察する役目と記されており、また、盟友の大谷吉継と共に先駈衆(先鋒)として出陣していたことが分かります。

このとき一番槍(最初に敵陣にダメージを与えた部隊または人)の活躍をみせ、秀吉から褒賞として4万石を与えられ近江水口城の城主に。こうして三成の戦国大名がスタートしました。

1584年に始まった検地(第一回目の太閤検地。近江国蒲生郡の検地)では吉継と奉行(現場の指揮)を務め、翌年に秀吉が関白に就任すると三成は従五位下治部少輔(貴族に相当する位階・役人)に叙任。

職務を堅実に遂行し、秀吉の命令を忠実に実行するためには私情を捨て、冷静な対応を取らざる得なかったわけで、そうした三成の姿を見て冷酷や遠慮がないといった印象を与えることも多かったでしょう。

しかも三成は性格が真面目で一途な傾向があり、それは三献の茶のエピソードを見ても分かるように尽くすタイプでもありました。普通なら実直というのは長所ですが、三成の場合は裏目になってしまったんですね。

縄張り争いや出世といった私欲をもつのが当たり前の時代において、秀吉の言うことだけを聞いて沈着冷静に仕事をこなす三成の姿は武将たちには"変人"に見えたのかもしれません。

三成が嫌われ者になった理由


画像:©2016NHK「真田丸」より石田三成

しかし、ただ変人というだけで嫌われ者のレッテルを貼られるとは思えません。三成が嫌われるようになった一番の理由は、三成が秀吉の陰謀に加担し、その後始末をしていたという説があります。

千利休の切腹(1591年)、蒲生氏郷の毒殺(1595年)、豊臣秀次の切腹(1595年)、いずれも三成が関与しているという説があり、ヒールなイメージが生まれたようです。

では、本当に三成が関与していたのでしょうか。結論から言えば、どれも曖昧で確証がありません。

<千利休の切腹>
吉田兼見の文献「兼見卿記」「利休が切腹したあと三成は利休の妻・宗恩にも処刑を科したという噂がある」と書かれていたことが、秀吉に加担していた可能性を示す証拠として取り上げられました。

ところが、実際に宗恩が亡くなったのは1600年のことで、利休が他界したのは1591年。噂は根拠のない"でまかせ"だったわけで、これについて三成の関与は可能性が低いと言えるでしょう。

噂に尾びれがついて、利休の首を一条戻り橋に吊るしたのは三成だ、なんて話も。噂レベルでも信じたということは、それだけ三成が秀吉に忠実だったことを物語っていますね。

<蒲生氏郷の毒殺>
秀吉は会津92万石に膨れ上がった氏郷を警戒していた節があり、それを察した三成が毒殺したという説。しかし当時、名医と称された曲直瀬道三が下した診断(玄朔道三配剤録)は病死でした。

それを裏付けるように氏郷が発病した頃の三成は文禄の役(朝鮮出兵)で日本には不在。そして、毒殺が本当なら、氏郷の家臣たちが関ヶ原の戦いで三成に加勢(蒲生家は西軍)するでしょうか。合点がいかないですよね。

<豊臣秀次の切腹>

実子のいなかった秀吉は側室の淀殿(茶々)が秀頼を出産すると、それまで我が子のように可愛がっていた養子の秀次を追放し、切腹に追い込やり、これを進言したのが三成という説。

ですが、近年の研究では「そもそも秀吉は秀次に切腹を命じていない」と考え直され始めており、三成が加担したどころの話ではなくなってくるわけです。なぜ秀次が自害したのか、ということ自体が謎になってしまうのですから・・・。

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