日本国憲法に「男女平等」「児童教育」の理念を掲げたベアテ・シロタ
画像:LAST BOAT TO YOKOHAMA
日本の現代社会において「男女平等」という理念は今や当たり前のことですが、それが常識となったのは33年前に男女雇用機会均等法が施行されてからです。
もっと歴史をさかのぼれば、敗戦するまでの日本は女性に対する扱いが不当で、女性の人権は軽視されていました。つまり、男性主体の社会だったわけです。
戦時下に入り本格的な軍事国家になると、ますます女性蔑視が目立つようになります。遠い昔のように聞こえるでしょうが、これは73年前の話なんですよ。
まだ一世紀(100年)も経っていないんです。そんな日本女性の立場を不憫に感じ、終戦後の日本国憲法に「男女平等」を書き加えようと尽力した外国人女性がいました。
彼女の名はベアテ・シロタ
画像:ベアテ・シロタと日本国憲法(岩波書店)
そもそも今の日本国憲法の原型(草案)は日本人が立案したものではなく、終戦後にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が起草し、当時の日本内閣が承認したものです。
1945年まで日本の憲法は明治23年に制定された大日本帝国憲法でした。終戦後、敗戦した日本がGHQの占領下に置かれたとき、いち早くGHQが着手したのが憲法の見直しです。
大日本帝国憲法は軍事思想の要因の一つであると考え、大幅に憲法を見直すことで新しい国家の誕生を目指すのが目的でした。
第二次世界大戦(大東亜戦争)の終戦と共に大日本帝国憲法は廃止となり、GHQが編成した8つの委員会によって新たな日本国憲法が起草されることになります。
そのメンバーの一人に、ベアテ・シロタという22歳の女性がいました。シロタはオーストラリアで生まれ、5歳のときに父母と日本へ来日。
そのまま日本で育ち、16歳で米国に留学。間もなくして日本とアメリカが戦争を始め、終戦した直後の1945年にシロタは日本へ戻りました。
彼女は、日本国憲法の起草において人権に関する条項を担当すると、真っ先に「女性の権利」に着目し、「男女平等」の理念を憲法に掲げることを目指します。
男性主体の当時の日本社会で男女平等の理念を憲法に加えることは革命的な行動であり、容易に解決できる問題でないというのは周知の事実でした。
それでもシロタは情熱を注ぎ、女性の権利が認められることを願いながら草案作りに尽力しました。
そのときの様子をシロタ著の自伝「1945年のクリスマス 日本国憲法に男女平等を書いた女性」を参考にしながら振り返ってみたいと思います。
ここからは、ベアテ・シロタの自伝を基に構成した内容です。言葉や表現は変えていますが、内容は原作に基づいて記しています。