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信長公記・7巻その3 「長島一向一揆の終結」

信長公記・7巻その3 「長島一向一揆の終結」

信長公記・7巻その3 「長島一向一揆の終結」
画像:歌川芳員・画「長島一向一揆」(東京都立図書館)

長島一向一揆の平定

長島(三重県桑名市)の一揆衆を制圧するために信長は1574年7月30日(天正2年7月13日)、息子の信忠を連れて岐阜城を出発し、津島(愛知県津島市)に陣を構えた。

長島は四方が難所に囲まれた要害の地であった。養老川、飛騨川、木曽川、大滝川、一之瀬川、山口川、今洲川、岩手川、杭瀬川、牧田川などに加え、山々から流れる谷水も合流して長島まで一本の大河を形成していた。

さらに、これらの川は長島の北・東・西を12キロ~20キロメートルほど囲んで南の海に繋がっており、その中心にあるのが長島である。まさに水に浮かぶ難攻の地であった。

長島には近隣の凶賊や凶徒が集まるようになり、願証寺(桑名市長島)を崇敬して一つの集団となっていた。

願証寺は本願寺の教えに逆らい、富や権力に溺れ、砦や城を築いて抵抗し、挙句の果てには諸国の罪人を集めて戦力とし、近隣の領土を脅かしていた。

1570年(元亀元年)に浅井・朝倉と臨戦中の信長の隙をついて長島の一揆衆が尾張河内(愛知県愛西市)の小木江(古木江城。城主は織田信与(信興))に攻め入り、信与が自害してから今日まで、信長は一揆衆から害を加えられ続けてきた。

 

信長の怒りは限界を超えていたが、これまで機会が訪れなかった。しかし、この度、ついに機会が訪れたのである。

信長は長島に根を張る一揆衆を一網打尽することを決意し、7月14日、織田が所領する全域から配下・兵を集め、陸と海から長島への侵攻作戦を開始して進軍を始めたのである。

信長公記・7巻その3 「長島一向一揆の終結」
画像:長島城跡の案内板(長島中部小学校の敷地にある長島城跡)

陸上の部隊として、東の市江口(愛知県愛西市と弥富市の間)からは織田信忠、西の賀鳥口(三重県桑名市)からは柴田勝家、中央の早尾口(愛西市)からは信長の主軍である三隊が侵攻。

賀鳥口の部隊は松之木(桑名市長島町)から侵攻し、対岸を守備していた一揆衆を撃退した。また、小木江村(愛知県愛西市)を封鎖していた一揆衆も信長の本隊に殲滅された。

篠橋(長島から2キロほどの木曽川の西岸河川敷)で守備していた一揆衆は羽柴秀長、浅井政貞が交戦。こだみ崎(愛知県弥富市)で船を集め海上戦を挑もうとしていた一揆衆は、丹羽長秀によって撃退された。

一揆衆が拠点としていた前ヶ洲(弥富市)、海老江島(弥富市)、加路戸(三重県桑名郡)、いくいら島(桑名郡)も焼き払われた。信長は五明(弥富市)まで進軍し、陣を構えて一泊した。

市江口(東からの上陸)
織田信忠、織田信包、織田秀成、織田長利、織田信成、織田信次、斎藤利治、簗田広正、森長可、坂井越中守、池田恒興、長谷川与次、山田勝盛、梶原景久、和田定利、中嶋豊後守、関成政、佐藤秀方、市橋伝左衛門、塚本小大膳

賀鳥口(西からの上陸)
柴田勝家、佐久間信盛、稲葉一鉄、稲葉貞通、蜂屋頼隆

早尾口(中央からの上陸)
織田信長、羽柴秀長、浅井政貞、丹羽長秀、氏家直通、安藤守就、飯沼長継、不破光治、不破勝光、丸毛長照、丸毛兼利、佐々成政、市橋長利、前田利家、中条家忠、河尻秀隆、織田信広、飯尾尚清

さらに7月15日、海上部隊として九鬼嘉隆らが動員され、畿内(山城国・摂津国・河内国・大和国・和泉国)で政務を任せられていた明智光秀や越前国(福井県越前市)の守備を命じられていた羽柴秀吉などを除いて主要な武将を総動員し、例を見ないほどの大軍(7~8万人)が長島に注力された。

水軍
九鬼嘉隆の安宅船、滝川一益・伊藤実信・水野守隆の安宅船、島田秀満・林秀貞・織田信雄・佐治信方を中心とした船団

船団には蟹江・荒子・熱田・大高・木多・寺本・大野・常滑・野間・内海・桑名・白子・平尾・高松・阿濃津・楠・細頸(尾張と伊勢の湾岸に位置する地域)から集まった兵が乗船しており、行く先々で一揆衆を攻め立てた。

織田信雄は垂水・鳥屋尾・大東・小作・田丸・坂奈井(伊勢の南部)の兵を大型船に乗船させて参陣した。長島を取り囲む大河は織田の軍船で埋め尽くされた。

信長公記・7巻その3 「長島一向一揆の終結」
画像:橋の下に長島城の石垣が残る大手橋

東西南北の海陸から織田軍の猛攻を受けた一揆衆の砦は次々と落とされ、一揆衆は長島城(桑名市長島)、大鳥居城・篠橋城(桑名市多度町)・屋長島砦(桑名市西汰上)・中江城(桑名市福島)に逃げ込んだ。

津田信広、津田信成、津田長利、氏家直通、安藤守就、飯沼勘平、浅井政貞、水野信元、横井雅楽守が篠橋城を囲み、柴田勝家、稲葉一鉄、稲葉貞通、蜂屋頼隆が今島(桑名市今島)に陣を構えて大鳥居城の攻撃に備えた。

坂手の郷(長島町坂手)には佐久間信盛とその息子が控え、東推付の郷(長島町押付)には市橋長利、不破勝光、丹羽長秀が陣を構え、加路戸島(三重県桑名郡)からは織田信包、林秀貞、島田秀満など100艇を超える尾張の船団が海上から攻め立てた。

大島(な志摩町大島)からは織田信雄と信孝が伊勢の船団を率いて攻め寄せた。大鳥居城と篠橋城の塀や櫓は大鉄砲で打ち壊され、一揆衆は降伏を申し入れてきたが信長は受け入れず、兵糧攻めを決定した。

しかし、8月18日、大鳥居城の一揆衆は夜中に逃げ出そうとしたところを織田軍が攻撃し、男女1000人あまりを討ち取り、大鳥居は落城した。

28日には篠橋城の一揆衆が城を明け渡す代わりに長島城へ移りたいと申し出て、これを信長は認めて一揆衆を長島城に追い込んだ。

その後、信長は信忠を連れて殿名(桑名市長島町)へ進軍し、前線に近い伊藤氏の旧屋敷に本陣を構えた。

取り逃がした一揆衆

信長公記・7巻その3 「長島一向一揆の終結」
画像:木ノ芽峠城跡

その頃、木ノ芽峠(福井県敦賀と南条の境にある山)では一揆衆の攻撃に備えて砦が築かれ、織田の家臣・樋口直房が守備を任せられていた。

しかし、理由は不明だが突如として樋口が砦を放棄して逃げ出すという事態が起き、妻子を連れて甲賀(滋賀県甲賀市)に逃避しようとしていた。羽柴秀吉が追跡し、樋口夫妻を斬り殺した。

二人の首は信長がいる長島の本陣に運ばれ、首実験を受けた。

一方、長島一向一揆は思いもよらぬ長期戦となっており、7月30日に一揆衆が長島城・屋長島砦・中江城に逃げ入ってから3ヵ月が経過し、一揆衆の半分以上は城内で餓死していた。

10月13日、力尽きた長島城の一揆衆は降伏を申し入れて城を明け渡した。信長から降伏を認められた一揆衆は船に乗って城を離れようとしたが、織田軍は一斉に一揆衆へ鉄砲を撃ち、船を降りた者は斬られた。

罠だということを知った7~800人ほどの一揆衆が怒り狂い、裸一つで織田軍に飛びかかった。もはや死を恐れず襲い掛かる一揆衆らは鬼の化身のようで、織田信広や織田信次、織田信成などが討たれ多くの犠牲者が出た。

一揆衆は織田軍の中を駆け抜けて無人の小屋に入ると支度を整え、川を越えて多芸山(養老山の旧名。岐阜県養老郡と大垣市上石津町にまたがる山)や北伊勢へ逃げ込んで大坂へと逃れた。

この失態に信長は、まだ一揆衆が立て籠もっている中江城と屋長島砦に対し、城・砦の周囲を柵で厳重に囲んで男女2万人を閉じ込め、四方より火を放って焼殺した。

この日のうちに信長は長島を離れ、岐阜城へと帰還した。

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