1867年、京都・近江屋で暗殺され31歳の若さで死去した坂本龍馬。ドラマやマンガでは“暗殺”の一言で片づけられることが多いが、龍馬の暗殺には多くの謎が隠されている。
いったい誰が暗殺を企てたのか、暗殺の実行犯は誰なのか、龍馬の暗殺には様々な“説”が囁かれているのだ。今回は、龍馬の暗殺に隠された「6つの説」をクローズアップしてみよう。
なぜ龍馬は暗殺された?
そもそも、なぜ龍馬は命を狙われたのだろうか。それは言うまでもなく、徳川幕府に反抗する厄介者であり、幕府の終焉に関わった重要人物だったからである。
生涯で龍馬は2度の暗殺に遭い、一度目の寺田屋では暗殺を察知して回避できたが手に深い傷を負い、その後も反幕府の要注意人物としてマークされていた。
1867年11月9日に大政奉還が実現し徳川の時代が終わると、同年12月10日に2度目の暗殺に遭い、前頭部を刀で斬りつけられ致命傷となり即死したとされている。
暗殺後の現場検証では龍馬の体から34~36カ所の斬られた傷痕が確認されており、いかに壮絶な死に際であったかが推測できる。無念・・・としか言いようがない。
暗殺説その1 京都見廻り組が実行犯
現在、龍馬の暗殺で一番の有力説となっているのが「京都見廻り組」による犯行だ。徳川幕府に仕える幕臣の親族で構成された組織だが、平たく言うと徳川家直属の警察隊である。
事件当日、見廻り組の組員4名が近江屋の2階へと侵入し、3名が1階で見張りをしていた。のちに、このとき見張りをしていた今井信郎が暗殺を供述し、これが有力とされている。
ただし、証言したのは今井だけであり、ほかの6名は否定も肯定もしなかった。
ところが暗殺から50年が経った頃、見廻り組の元組員・渡部篤が「見廻り組リーダーの佐々木只三郎から暗殺の命令を受けて龍馬を斬った」と亡くなる直前に言い残したのだ。
さらに、龍馬を斬った刀が現存しており、それが見廻り組の桂早之助のものであることから実行犯の確信が高まった。龍馬は徳川幕府を破滅させた憎き敵である。
幕府に忠誠心を誓った見廻り組にとって生かしてはおけぬ相手だったのだろう。「徳川が滅びるなら道連れに・・・」そうした強い恨みが引き起こした暗殺と考えられる。
なお、見廻り組に暗殺を命令したのは京都守護職・会津藩主の松平容保とされているが、いずれにしても暗殺は幕府の終焉に加担した龍馬を“消す”ための事件だったのだろう。
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