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実は"猛将"ばかりじゃない?「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれた武将たち(後編)

実は"猛将"ばかりじゃない?「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれた武将たち(後編)


画像:左から加藤清正(京都市勧持院)、加藤嘉明(滋賀県藤栄神社)
下段右から福島正則(東京国立図書館)、片桐且元(京都市大徳寺塔頭玉林)

さて、前編中編で賤ヶ岳七本槍の武将4人を紹介しましたが、ラストは「脇坂安治」「糟屋武則」「平野長泰」の3人。

何度も言うようですが、今回は賤ヶ岳七本槍のメンバー7人のプロフィールを紹介するという至ってシンプルな内容になっていますので、おさらい程度に読み進めて頂けると幸いです!

脇坂安治


画像:脇坂安治(龍野神社)

脇坂家は浅井長政に仕えた武家でしたが、信長が浅井家を滅ぼすと15歳の安治は羽柴秀吉に仕えることになります。

26歳のとき、信長の丹波国征伐に明智光秀の援軍として(秀吉から「行ってこい」と言われ)出陣し、300の兵を従えて黒井城の戦いに参陣しました。黒井城は"丹波の赤鬼"と恐れられた猛将・赤井直正が守る城。

しかし、直正は体調を崩して(一説によると悪性の炎症が背中まで広がっていた)おり、戦える状態ではなかったそうです。安治は勇敢にも単身で黒井城に入城し、直正に降伏を促しました。

それを知った直正は「なんとも度胸のある男だ」と感心し、このとき、安治に「貂(てん)の皮」の槍鞘(槍の刃物を収める鞘)を贈ったと言われています。直正は「降伏する気がない=死ぬ気でいる」ことを悟った安治は翌朝、300の兵を率いて城内に突撃。

真っ先に直正の本陣に向かって突っ込み、直正を討ち取りました。その後、小田原征伐や朝鮮出兵で武功を挙げ、淡路洲本を拝領して3万3000石を与えられます。 秀吉が他界してから徐々に家康と親しくなりますが、大阪で石田三成が挙兵すると不本意ながら西軍の一員として関ケ原に出陣。

関ケ原で藤堂高虎の誘いを受け、東軍へ寝返ったことで知られていますね。そもそも家康と戦うつもりはなかったのですから、安治にとって関ケ原の戦いは"選択肢"の一つに過ぎなかったのです。

合戦後は伊予大洲5万3000石に昇格。とはいえ、豊臣家への恩を忘れていたわけではありません。家康が本格的に豊臣潰し(方広寺の鐘銘事件、大坂の陣)に動き出すしても、安治は中立の立場を貫いて家康に加勢することはありませんでした。

豊臣家を"潰す"となれば、話が変わってくるからです。そのため、安治は息子の安元に家を継がせて伊予大洲を離れ、京都で残りの人生を西洞院で過ごしています。名前も、剃髪して臨松院と改めました。

大坂冬の陣では安元が幕府軍として家康から八丁目口を任され、大坂夏の陣では天王寺の戦いで武功を挙げ、安元は伊予国大洲藩2代藩主となり、のちに信濃国飯田藩の初代藩主となりました。

関ケ原の戦いで寝返った武将の一人として名前が挙がる安治ですが、晩年は彼なりに葛藤と苦悩の中で余生を過ごしたのではないでしょうか。最期は武将から僧になったわけで、なにか感慨深いものがありますね。

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