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信長公記・10巻その1 「紀州征伐」

信長公記・10巻その1 「紀州征伐」

信長公記・10巻その1 「紀州征伐」
画像: 雑賀衆と織田信長軍の攻防戦(紀伊国・名所図)

まえがき

吉良(愛知県西尾市)で鷹狩を終えた信長は1577年1月20日(天正5年1月2日)に安土城へ帰還した。

2月1日には再び京都へ入って妙覚寺(当時は京都市中京区二条衣棚。現在は上京区)に滞在した。信長のもとへ別所長治、浦上宗景、若狭(福井県南西部)の武田氏や隣国の武将などが挨拶に訪れ、信長は京都で政務を行ってから12日に安土城へ帰還した。

紀州征伐

1577年2月19日(天正5年2月2日)、紀州雑賀(和歌山市雑賀町)の三緘衆(雑賀三組)※と根来衆(根来寺の僧兵たち)の杉之坊照算が信長へ内通(服従。スパイ)することを約束した。

※(雑賀には5組の勢力があり、その中の宮郷・中郷・南郷、これら3つの村を縄張りとする三組が三緘衆。三緘衆が信長に寝返ったことで、残り二組(雑賀荘と十ヶ郷)が信長の敵対勢力となった)

信長は直ちに出撃を決め、3月2日に紀伊(和歌山県と三重県南部)に進軍することを諸国の家臣らに伝えた。

当初の予定では2月25日に京都を出発する計画だったが、強い雨で計画が変更となり、京都(妙覚寺)に入ったのは26日だった。

息子の信忠は尾張(愛知県西部)・美濃(岐阜県南部)の兵を率いて26日に岐阜城(家督を継いで信忠が城主。信長は安土城へ転居)を出発し、柏原(滋賀県米原市)で野営した。

柏原を出た信忠は27日に蜂屋頼隆の肥田城(滋賀県彦根市)に泊まり、28日に守山(滋賀県守山市)へ入った。

この日は伊勢(三重県北中部、愛知県弥富市の一部、愛知県愛西市の一部、岐阜県海津市の一部)からも織田信孝、織田信雄、織田信包らが進軍してきており、街道沿いの瀬田・松本(いずれも滋賀県大津市)には尾張・美濃・近江(滋賀県)・伊勢から集まった織田の大軍が野営していた。

また、畿内(山城国・摂津国・河内国・大和国・和泉国)の兵や、越前(福井県嶺北地方と敦賀市)・若狭(福井県南部から敦賀市を除いた部分)・丹後(京都府北部)・丹波(京都府中部、兵庫県北東部、大阪府北部)・播磨(兵庫県南西部)の兵は京都に集まり、信長の出撃命令を待っていた。

そして、3月2日、信長は進軍を下し、京都を出発した。淀川(琵琶湖から流れる河で瀬田川・宇治川・淀川と名前を変えながら最終的に大阪湾へ流れ込んでいる)を越えて八幡(京都府八幡市)で野営した。

信長公記・10巻その1 「紀州征伐」
画像:石清水八幡宮(京都府八幡市)

3日は雨が強く降っていたので八幡に留まったが、近江から進軍していた信忠の部隊や伊勢から向かっていた織田の部隊は雨にも関わらず先を急ぎ、槙島(京都府宇治市)の宇治川を越えて八幡に到着し、信長と合流を果たした。

4日、八幡を出た織田軍は若江(東大阪市の旧名)に入り、5日に和泉(大阪府西南部)の香庄(岸和田市)で陣を構えたが、和泉の一揆衆が貝塚(大阪府貝塚市)の海近くに砦を築いて立て籠もっていた。

6日、織田軍は貝塚の砦に攻めかかったが一揆衆は砦を捨てて夜中に船で紀伊方面へ逃亡した。織田軍は香庄に引き返し、信長のもとへ杉之坊照算が御礼の挨拶に訪れ、照算は雑賀の一揆衆の殲滅に協力することを誓った。

7日、信長は佐野の郷(大阪府泉佐野市)に陣を移し、11日には志立(大阪府泉南市)に入り、ここで部隊を海沿いを進軍する部隊と山から進軍する部隊にわけて紀伊を目指した。

山から進軍している部隊(=山の部隊)は杉之坊照算と三緘衆が道案内を務め、羽柴秀吉、佐久間信盛、荒木村重、堀秀政、別所長治、別所重宗ら3万人の兵力。

海沿いを進軍する部隊(=海の部隊)は明智光秀、丹羽長秀、滝川一益、筒井順慶、長岡藤孝、大和衆(奈良県の勢力)、織田信忠、織田信孝、織田信包、織田信雄ら3万人の兵力であった。

山の部隊は雑賀二組(雑賀荘と十ヶ郷の勢力)に攻め入ったが、敵は雑賀川(和歌川)の左岸(和歌山市小雑賀)に柵を築いて防戦の姿勢をとった。

3月13日、防御線を破るために山の部隊は堀秀政が兵を率いて川の中を突き進み川岸の柵まで迫ったが、思いのほか防柵が高く、岸へ上がることができずに立ち止まった。すると敵は銃弾を放ち、堀の部隊は多くの戦死者を出して退くしかなかった。

山の部隊は川を境にして防柵の対岸で攻囲の姿勢をとり、先鋒隊の通路を守るために氏家直通、稲葉一鉄、飯沼勘平が紀の川に陣を構えた。

信長公記・10巻その1 「紀州征伐」
画像:紀の川(和歌山県紀の川市)

海の部隊は明智光秀、丹羽長秀、滝川一益、細川藤孝、筒井順慶、大和衆が淡輪(大阪府泉南郡岬町)で3つの部隊にわかれ、明智光秀と細川藤孝の部隊が一本道を進み、残り2部隊は山中を進軍した。

孝子峠(岬町と和歌山市の県境にある峠)を超えた3部隊は敵の防衛線に接し、雑賀二組と戦闘が開始された。

後方から進軍してきた織田信雄、織田信忠、織田信孝、織田信包の部隊も加わり、細川藤孝の家臣・下津権内が一番槍の武功を挙げるなど、凄まじい勢いで攻め立てた。

ちなみに下津権内は、過去に岩成友通を討ち取るという武功を挙げた人物である。戦闘は織田軍の勝利で終わり、防御線を焼き払うと、そのまま南下して中野城(和歌山市中野)を包囲した。

1577年3月17日(天正5年2月28日)、一方の信長は淡輪まで進軍して陣を構え、これを知った中野城の敵兵は降伏し、ここに信忠が陣を構えた。

信長は19日に淡輪を出発し、下津権内を呼び出して褒美の言葉を与えた。そのあと、道中で野営を構え、信長は馬で駆け回りながら周辺の地形を視察した。

20日、信長は、明智、滝川、丹羽、細川、蜂屋、筒井、若狭衆らを鈴木孫一(雑賀孫一。のちの鈴木重秀で雑賀衆の鉄砲隊長として有名)の屋敷に向かわせ、攻撃した。

この間に信長は、速やかに移動できる位置として、山と海の中間にある鳥取郷(大阪府阪南市)の若宮八幡宮で陣を構えた。

そして、不破光治、堀秀政、水野大膳、丸毛長照、武藤舜秀、山岡景隆、丹羽氏勝、中条将監、生駒市左衛門、生駒三吉、福富秀勝、福田三河、牧村長兵衛らを根来(和歌山県岩出市)に向かわせ、小雑賀(歌山市小雑賀)と紀の川に続く峠に陣を構えさせた。

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