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信長公記・3巻その4 「志賀の陣」

信長公記・3巻その4 「志賀の陣」

信長公記・3巻その4 「志賀の陣」
画像:浅井長政の肖像(長浜城歴史博物館)

志賀の陣

10月15日、越前(福井県越前市)の朝倉義景と浅井長政の連合軍3万が近江(滋賀県大津市)を南下し、坂本口(大津市下坂本)で戦闘準備に入っていた。

この報告を受けた宇佐山城の森可成は軍を率いて出陣し、坂本口の町はずれで朝倉・浅井の連合軍の小隊と衝突した。両軍の足軽が小競り合いとなり、森軍が敵首を挙げて勝利した。

とはいえ、朝倉・浅井の本隊は打撃を受けておらず、森軍の動きを知った朝倉・浅井の連合軍は18日に二手にわかれて一気に坂本口まで押し寄せてきた。

森軍は奮戦したが、朝倉と浅井の挟み撃ちにより劣勢となった。それでも森軍は交戦し、力の限りを尽くしたが大軍を前に打つ手がなく森軍は壊滅した。

この合戦で織田の家臣である森可成、織田信治、青地茂綱、尾藤源内、尾藤又八など多くの勇将が討死にした。

また、森軍の中に尾張(愛知県の西部)守山(名古屋市守山区)の道家家清十郎と助十郎という兄弟もいたが、この二人は1565年に武田信玄が東美濃の高野口(岐阜県瑞浪市)に侵攻してきた際、肥田玄蕃と共に先陣を務めた森可成に加勢して敵首3つを挙げた。

信長は、このとき兄弟が掲げていた白い旗指物(馬印)に「天下一の勇士」と直筆で書き、武功を讃えた。坂本口の合戦でも、この旗指物を掲げて奮戦し、森可成と共に討死にした。

森軍を打ち破った朝倉・浅井の連合軍は宇佐山城に攻め入って火を放ったが、城を守備していた武藤五郎右衛門と肥田彦左衛門らが必死に交戦して落城を防いだ。

宇佐山城から引き揚げた朝倉・浅井の連合軍は19日に馬場と松本(滋賀県大津市)へ小隊を進軍させ、町や村に火を放ち、20日には大津の逢坂を越えて京都の醍醐と山科を焼き払った。

朝倉・浅井の連合軍が入京した知らせが21日に摂津(大阪市天王寺区)中島の陣に届き、その後、信長のもとにも報告が入り、信長は野田の陣を和田惟政と柴田勝家に任せて22日に中島へ入り、江口川(大阪市東淀川区)に向かった。

江口川は宇治川と淀川の支流で水量が多く、水の流れも激しく、舟で渡るのが通常だったが、江口川の対岸で一揆が起きており、反乱者たちが船を隠していたせいで足止めされてしまった。

さらに、その反乱者たちは竹槍を片手に対岸から織田軍に向けて嬌声(色気のある艶やかな声)を投げかけて様子をうかがっていた。信長は川沿いを馬で駆け、川の流れを確かめた。

そして、そのまま川に入ると兵らに「渡るぞ」と指示し、織田軍は騎馬も歩兵も一斉に川を渡り切った。この翌日、穏やかだった川の流れは急に水かさが増して流れも速くなり、いつもの江口川に戻っていた。

近隣の住民たちは口々に「なんとも不思議なことだ」と囁き合ったという。

信長公記・3巻その4 「志賀の陣」
画像:朝倉義景の肖像(心月寺)

10月23日、信長は逢坂を越えて坂本口に陣を構えていた朝倉・浅井の本隊に攻撃を仕掛けようとしたが、織田軍の来襲を知った敵兵らは比叡山へ退却し、新たに蜂が峰、青山、局笠山に陣を構えた。

信長は延暦寺(比叡山)の僧侶10数名を呼び寄せ、「織田に加勢するなら奪取していた山門の領土を返還する」と伝え、「出家した身ならば片方のみを贔屓(ひいき)するのは道理に反する」と説得し、約束の事柄を稲葉一鉄が朱印状に書き記した。

そのうえで信長は、「もし断るなら根本中堂や寺内の21社など焼き払う」と念押しした。しかし、延暦寺の僧侶らは勧告を聞き入れず、朝倉・浅井に加勢したのである。信長は坂本口に本陣を構えて25日に比叡山を包囲した。

まず、比叡山の麓にあった香取屋敷を改修して平手監物、不破光治、丸毛長照、浅井新八、長谷川丹後守、丹羽源六、山田三左衛門を配置させ、穴太(大津市坂本穴太町)に砦を築いて明智光秀、簗田広正、河尻秀隆、佐々成政、村井貞勝、佐久間信盛、塚本小大膳、苗木久兵衛ら16名の武将を配備した。

田中(大津市下坂本)には柴田勝家、氏家ト全、安藤守就、稲葉一鉄が陣を構え、唐崎(大津市下坂本)にも砦を築いて佐治八郎、津田太郎左衛門が配置された。

そして、信長は志賀(大津市にあった町)の宇佐山城に本陣を構えた。また、比叡山の西の麓・地蔵山では織田信広、三好康長、香西越後守、足利義昭の軍ら総勢2000余りが陣を構えていた。

さらに、八瀬(京都市八瀬)と大原口(京都市大原)には山本対馬守と高野蓮養坊が陣を構えており、周辺の地理に詳しい二人は夜中になると比叡山に忍び入って火を放って延暦寺の僧侶たちを困らせた。

11月17日になり、信長は比叡山に陣を構える朝倉義景のもとへ菅谷長頼を出向かせ、「無駄に時間を浪費する必要はない。一戦を交えて勝負をつけよう」と伝えた。

しかし、朝倉から返答はなかった。一方、信長が比叡山に気をとられている隙に、三好三人衆が野田と福島の砦を修復し、浪人を集めて河内国と摂津国(いずれも大阪)の各所で威嚇行動をとっていた。

この事態に高屋城(大阪府羽曳野市)の城主・畠山高政や若江城の三好義継、交野城の安見右近、伊丹城、塩河城、茨木城、高槻城の城主らが守備を固めており、和田惟政が率いる畿内衆も各所で警備していたため、三好三人衆が京都に進軍することはなかった。

近江の南部では六角承禎と、その息子が挙兵して甲賀(三重と京都の境に位置する。滋賀県湖南市)の菩提寺城で家臣の三雲定持と合流したが、兵力が足りずに出陣するに至らなかった。

また、近江(江州)では本願寺派の農民たちが騒動を起こして美濃・尾張方面に続く道を閉ざそうとしていたが、少数だったため、脅威と呼ぶほどの問題ではなかった。

織田の家臣・木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)と丹羽長秀が近江を転戦し、反乱や騒動を鎮めて回った。その後、二人は兵を率いて志賀へと向かった。

その途中、建部(滋賀県八日市市)で一揆が起きており、近隣の観音寺山(滋賀県蒲生郡安土町)と箕作山(滋賀県八日市市)と連携してみ千恵雄塞いでいたが、藤吉郎と長秀は蹴散らして先を急いだ。

信長公記・3巻その4 「志賀の陣」
画像:原画・正子公也「豊臣秀吉のフィギュア」(エムアーツ)

藤吉郎と長秀の軍勢は志賀に到着し、瀬田城(滋賀県大津市)に入った。

二人の着陣を宇佐山から遠望した信長は、はじめ、瀬田城の山岡景隆(信長の家臣)が六角氏を引き入れて謀反を起こしたのかと勘違いしたが(山岡は信長の家臣になる前は六角氏の家臣だったため)、すかさず飛脚が藤吉郎と長秀の到着ということを報告し、不審は晴れた。

12月13日、信長は「鉄綱で瀬田城に船橋を架けよ」と丹羽長秀に命じ、村井新四郎と埴原新右衛門に近隣を警護させた。

一方、尾張(愛知県の西部)では信長の弟・信与(信興)が小木江(愛知県弥富市)に小木江城を築き、居城としていた。すると、信長の不在を知った尾張の輩(やから)たちが一揆を起こし、小木江城に攻め寄せてきた。

12月18日には一揆衆が城内へ侵入し、追い詰められた信与は小木江城の天守櫓で自害した。

19日、足利義昭を通じて六角承禎が信長に和睦を申し入れ、成立。22日には堅田城(大津市本堅田町)の猪飼野甚介、馬場孫次郎、居初又次郎の3名が、織田の家臣・坂井政尚、安藤右衛門、桑原平兵衛に信長への内通を申し入れてきた。

坂井は信長に報告し、飼野らから人質を預かり、坂井らが1000余りの兵を率いて堅田城へ夜に入った。この動きを知った朝倉・浅井は堅田城が信長の手に落ちることを危惧して大軍を率いて堅田城に攻め寄せた。

堅田城の織田軍は少数ながらも奮戦し、敵の中村木工丞や前波藤右衛門などを討ち取ったが次第に兵力を削られていき、浦野源八と、その息子、坂井政尚ら勇将が討死にした。

季節は冬で、降雪で各方面への道が閉ざされようとしていた。朝倉義景は足利義昭を通して信長に休戦を申し入れてきた。はじめは断ったが27日に三井寺(滋賀県大津市)に義昭が足を運び、再度、休戦を進言してきた。

さすがに無視できないと考えた信長は九千の申し入れを受け入れた。(近年の調べでは信長が朝廷または義昭に働きかけて休戦に至ったとされている)

1571年1月8日(元亀元年12月13日)、信長と朝倉・浅井の間で講和が成立し、9日には織田軍は兵を引き上げて瀬田城まで退き、朝倉・浅井が高島(滋賀県高島市)に到着するまで道中の安全を保障する約束を交わした。

10に朝倉・浅井の連合軍は早朝に比叡山を下り、高島に引き上げていった。信長も織田軍を率いて雪道を進軍して佐和山の麓・磯の郷(滋賀県米原市)で1泊し、12日に岐阜城へ帰還した。

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