まさに「名刀」の極み!戦国武将や新撰組が愛した日本刀23選
画像:「小鳥丸」のレプリカ(出典:岐阜関刃物工房V.ROAD)
飛鳥時代や奈良時代の刀は相手を突き刺す目的で作られた少し幅広の直刀でしたが、平安時代の後期頃から山なりに反った刀へと形が変わり始めました。つまり、これが日本刀の原型になります。
一説によると、反った刀の起源には平将門が関係しているとのこと。戦で馬上から刀を振るったとき直刀では斬りつけにくいという難点があり、刀に反りをつけて振るいやすく幅も細くしたそうです。
当時は反った形状の細い刀は珍しく、日本刀の原型として現存する最古の刀「小烏丸」は、ちょうど将門が全盛期の頃に作られたものと言われています。ちなみに、国宝に指定されている刀剣は110点前後あるんですよ。
そこで今回のテーマは「日本刀」。新撰組が使っていた刀は何だったのか、戦国武将が使っていた刀で名刀と呼ばれるものはあったのかなど、数ある日本刀の中から名刀や妖刀にまつわるエピソードを紹介したいと思います。
戦国武将が愛した名刀
村正(むらまさ)
画像:「村正」のレプリカ(出典:岐阜関刃物工房V.ROAD)
まず、村正とは刀職人の名前。村正が作った刀には「村正」と名付けられていたわけですが、そうなると一本ではありませんよね。そう!当時、村正は何本も存在していました。
あの真田幸村も村正(千子村正)を愛用していた一人と言われています。つまり、村正が作った刀すべてが妖刀ということになるんです。では、なぜ村正が「妖刀」と呼ばれるようになったのでしょうか。
それは、徳川家康が「村正は災いの種だ!」「徳川家に災いを起こす不吉な刀だ!」と恐れたから。
・家康の祖父・松平清康が村正で殺された
・家康の父・松平広忠が岩松八弥に襲われたときの刀が村正だった
・家康の長男・信康が信長に命じられて切腹したときに使った刀が村正
・妻の築山御前が村正で殺された
・関ヶ原の戦いで家康が斬りつけられた槍が村正だった
・家康は大坂夏の陣で真田幸村に村正の短刀を投げつけられた
確かに不幸の連続ですね。とはいえ、村正は切れ味が鋭く実戦での使い勝手を追及して作られた刀。言い換えるなら武士に人気でオーソドックスな刀だったのです。ということは、持っている武士も多かったのかと・・・
しかし、そんなこと用心深い家康には関係ありません。江戸時代に入り、家康は村正を持つことを禁じました。いつしか「妖しい刀」=妖刀として遠ざけられる存在になったんですね。
宗三左文字(そうざさもんじ)
画像:「宗三左文字」のレプリカ(出典:刀剣販売むしゃ処)
桶狭間の戦いで今川義元に勝利した織田信長が今川家から奪取した刀。いわば戦利品というやつです。信長が重宝していましたが、ルーツをたどると最初の持ち主は武田信虎(信玄の父)です。
三好長政が信虎に贈った刀でしばらくは所有していたんですけど、お家騒動(信玄が信虎を武田家から追放した事件)が起きると今川義元の手に渡っちゃうんですよね。
義元は宗三左文字を骨董品のように大切に扱って飾っていたそうです。そして桶狭間の戦いで敗れ、信長が戦利品として没収しました。さすがは信長、宗三左文字の付け根の部分に金文字で「永禄三年五月十五日義元討捕刻彼所持刀」と彫ってしまうんですよ。
本能寺の変で信長が亡きあとは秀吉が管理し、のちに秀頼のもとへ。最後は大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした徳川家康の手中におさまります。天下人に引き継がれた宗三左文字は、現在、重要指定文化財に指定されています。
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