信長公記・11巻その5 「荒木村重の謀反」
画像:歌川国芳・画「荒木村重」(伊丹市立博物館)
有岡城の戦い
1578年11月20日(天正6年10月21日)、荒木村重に謀反の兆候がある(織田に敵対する石山本願寺に寝返る)との報告が信長に届いた。
しかし、この情報を信長は信用せず、明智光秀、松井友閑、万見仙千代を村重の居城である有岡城(兵庫県伊丹市)に向かわせて「何か不満があるなら信長が望みを聞き入れる」と伝えさせた。
村重は「野心や思惑などない」と答えた。この返事に信長は安心し、念のため人質として村重の生母(生みの親)を差し出す約束を交わさせて安土城へ来るように命じた。
とろこが、すでに村重は謀反を決意したあとであり、信長の呼び出しを無視して来なかった。
もともと村重は一介の地侍だったが、足利義昭が信長に敵対したとき、真っ先に信長へ服従を誓った功績によって摂津国(大阪府北中部と兵庫県南東部)の統治を任される立場にまで昇格したのであった。
それにもかかわらず、村重は恩義を忘れてしまい、ついには逆心を抱いてしまったのである。
もはや村重の謀反は周知の事実であり、信長は「こうなったら仕方ない」と言い、安土に稲葉一鉄、不破光治、織田信孝、丸毛長照を残して12月1日に京都へ入った。
信長は再度、羽柴秀吉、明智光秀、松井友閑を有岡城へ向かわせて説得させたが、村重が応じることはなかった。
また、石山本願寺の周りには石山本願寺の動きを監視するために信長が築かせた砦があり、ここに信長は側近(小姓や馬廻、弓衆)を観察役として派遣していた。そうした側近らを村重は石山本願寺への手土産として殺すという噂まで信長の耳に入ってきたのだ。
信長は側近らを保護しようと考えたが、もはや策を講じる時間が間に合わず申し訳ないと思っていた。しかし、勘が働いた砦の武将らが側近らを護衛して信長のもとへ送り届けてくれた。
信長は彼らの功績を称え、「誠に見事な働きである」と言って褒美の衣服を与えた。
一方、堺(大阪府堺市)では12月4日に中国地方の水軍(毛利水軍)600隻が木津川口(大阪市大正区)に進軍してきた。
織田軍の九鬼嘉隆が船団を率いて出撃しようとしたが、一早く毛利水軍は九鬼の水軍を包囲して攻撃を仕掛けてきた。戦いは木津川口の海上において4日の辰刻(午前7時~9時)から夕方まで続いた(第二次木津川口の戦い)。
画像:九鬼嘉隆の肖像(常安寺)
船の数など表向きの戦力を考慮すると、状況から考えて九鬼の水軍が毛利水軍を蹴散らすというのは不可能に思われた。しかし、九鬼の船6隻と白船(鉄甲船)1隻は鉄製で、さらに複数の大砲が備わっていた。
近くまで敵の船団を引き寄せ、大将が乗っていると思われる船に的を絞って大砲を放ち、壊滅的なダメージを与えた。すると、敵の船団は勢いがなくなり、九鬼の水軍から離れて大阪湾まで退いた。
12月7日、信長は5万の兵を引き連れて摂津へ進軍し、山崎(摂津国と山城国の境)に陣を構えた。
摂津国・・・大阪府北中部と兵庫県南東部
山城国・・・京都府南部
翌日、明智光秀、丹羽長秀、滝川一益、氏家直通、稲葉一鉄、蜂屋頼隆、安藤守就に芥川(大阪府高槻市)・糠塚(大阪府茨木市)・大田村(茨木市)・猟師川(茨木川)で陣を構えさせ、大田村の北の山(茨木市三島丘)に砦を築かせた。
また、織田信忠、織田信孝、織田信包、織田信雄、前田利家、佐々成政、不破直光、金森長近、原長頼、日根野備中、日根野弥次右衛門らの部隊も摂津に入り、天神馬場(大阪府高槻市)で陣を構えた。
そして、信長は信忠らに天神山砦(高槻市天神町)を築かせた。信長は山崎から安満(高槻市八丁畷町)に移動し、周辺を見渡せる小高い山に陣を構え、麓に簡易的な砦を築かせた。
さて、高槻城の城主である高山右近はキリスト教徒(キリシタン)であり、荒木村重の家臣だったが、信長は右近を服属させるために策を講じた。信長はカトリックの宣教師を呼び出し、ある条件を申し付けた。
それは、「右近に織田へ服従するよう説得したら褒美として望みの場所にキリシタンのための寺を建造してやろう。これを断るならキリシタンを永久的に追放する」というものだった。
宣教師は断れるはずもなく、承諾するしかなかった。そして、羽柴秀吉、佐久間信盛、松井友閑、大津伝十郎に連れられて宣教師は有岡城に向かい、右近の説得を試みた。
右近は荒木村重に人質を差し出していたが、「小鳥を犠牲にして多くの鳥を救う」ことがキリシタンの繁栄につながると考え、宣教師の説得に応じて高槻城を信長に明け渡し、織田に服従することを誓った。
その矢先、大田村の北の山(大田村砦。大阪府茨木市三島丘)の砦が完成したとの報告が届いた。信長は不破直光、前田利家、佐々成政、原長頼、金森長近、日根野弥次右衛門、日根野備中に砦の守備を任せた。