信長公記・首巻その5 「今川義元との戦いに備える」
画像:武田信玄の肖像(高野山持明院)
武田信玄と天沢和尚
尾張国(愛知県の西部)には天台宗の高名な僧侶・天沢和尚がいた。天沢(てんたく)が道中で関東に立ち寄ると、甲斐国(山梨県)の土地を仕切る奉行に勧められて武田信玄と会うことになる。
信玄は、天沢に生まれた国を訪ねた。生まれは尾張と答えれば、次は風土(郡)を聞いてきた。天沢は「清洲信長家の当主である織田信長の清洲城から5.5キロメートルほど東に下った味鋺(味鏡。春日部郡)の寺です」と答えた。
これを聞いた信玄は、信長とは何者だ、と尋ねた。天沢は信長について知る限りを話す。
信玄が「風流な男か」と聞くと天沢は「舞と唄が達者と聞いています」と答え、また、「幸若の舞(曲舞の一つ)※も好んでいたか?」と尋ねると、天沢は「信長の側近・松井友閑が曲舞に詳しく、信長も好んでいるようです」と答えた。
※幸若の舞・・・人間五十年、 下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなりで有名な曲舞
重ねて信玄は「では、どのように鷹狩をしている」と聞くと、天沢は「鳥見という役目の家来がおり、鳥見が二人一組となって獲物を見つけると一人が見張って、もう一人が信長に報告し、鷹狩の際には弓と槍に秀でた六人衆という供回りも同行させています」と答えた。
※信長公記の著者・太田牛一は信長から弓の腕前を褒められて六人衆の一人に抜擢されている
さらに天沢は、「馬に乗った家来が藁を手にして獲物の注意を引き付け、その隙に信長が鷹に屋を放つのです。獲物が落ちると家来が捕獲すると聞いております。信長は鷹狩の名人であり、獲物を多く仕留めるそうです」と答えた。
天沢の話を聞いた信玄は、「鷹狩とはいえ道理にかなっており、さぞ戦いぶりも見事なのだろう」と満足気に言った。
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