なぜアメリカは「開国」を要求したのか?黒船来航が日本に与えた影響
画像:1852年製造のポーハタン号(幕末明治大正「回顧八十年史」)
徳川幕府がアメリカと締結した日米和親条約をきっかけに日本は幕末に入るわけですが、すべては「黒船」の来航から始まりました。
突如として現れた黒船に江戸の民衆や幕府の役人たちは大慌て。そして、きっと彼らは思ったでしょう。「あいつらの目的は何だ?」と・・・。
今回は、知っているようで意外と知らない「黒船来航の理由」についておさらいしてみたいと思います。なぜアメリカが幕末の日本に来航したのか、その目的は何だったのでしょうか。
黒船来航と幕末
画像:ペリーの像(東京都港区芝公園)
日米和親条約を結ぶまでの日本は朝鮮王朝、明朝と清朝(中国)、オランダ東インド会社(オランダ)との貿易に限られており、他国との交易は禁止されていました。
ちなみに鎖国の期間は、南蛮船(ポルトガル船)の入港禁止(1639年)から日米和親条約が締結される(1854年)までを指すのが一般的です。
さて、ペリー提督を乗せた黒船が浦賀(横須賀市久里浜)に上陸したのは1853年7月8日。
ペリーは、ミラード・フィルモア大統領から預かった国書(手紙)を幕府に渡し、その国書には「開国の要求」が記されていたとされます。
翌年に幕府は日米和親条約を締結し、日米和親条約の具体的な条約文が追記された下田条約を再び締結。それを皮切りに、様々な国と条約を締結し、日本の鎖国は解かれることになります。
1854年・・・日米和親条約、下田条約、日英約定
1855年・・・日露通好条約、日蘭和親条約
1858年・・・
日米修好通商条約(アメリカ)
日蘭修好通商条約(オランダ)
日露修好通商条約(ロシア)
日英修好通商条約(イギリス)
日仏修好通商条約(フランス)
※総称して安政五カ国条約とも言う
1860年・・・日葡修好通商条約(ポルトガル)
1861年・・・日普修好通商条約(ドイツ)
1866年・・・日伊修好通商条約(イタリア)
1869年・・・日墺修好通商航海条約(オーストリア)
しかし、開国を黙認できなかったのが尊皇派と攘夷派。半ば独断で日米修好通商条約を締結した井伊直弼に不満を抱き、やがて安政の大獄で恨みを買った井伊は水戸浪士らに暗殺されてしまうわけです。
世にいう桜田門外の変ですね。さらに、幕府に対する尊皇攘夷派の反発は膨れ上がり、大政奉還や王政復古の大号令を経て、最終的に幕府は戊辰戦争で新政府軍に負け壊滅しました。
このように幕末の引き金となった黒船来航ですが、そもそもアメリカの目的は何だったのでしょうか。
開国の目的
画像:1843年製造のサラトガ号(幕末明治大正「回顧八十年史」)
アメリカが日本に開国を求めた目的は主に2つあります。
一つ目は、「アジア諸国と貿易するにあたり中継地点として日本が便利だった」こと。
当時のアメリカ合衆国はアメリカ東部(ワシントンDCやボストン、ニューヨークやフィラデルフィアなど)に人口が集まっており、インドや中国の輸入物資を大西洋からアメリカに運んでいます。
ところが、カリフォルニア(アメリカ西部の地域)で金山の発掘が始まるとアメリカ西部に人口が流れ込み、輸入物資をアメリカ西部にも運ばなければならなくなりました。
アメリカ東部は太西洋に面しており、インドや中国の輸入物資はノルウェーを経由し、船で大西洋を渡ってアメリカ東部に運ばれていたそうです。
しかし、西部は太平洋に面しており、物資を東部から西部まで運ぶには、西大西洋に南下し、南米大陸を周って太平洋へ渡航しなければならないので非常に効率が悪かったのです。
とはいえ、インドや中国から大平洋からアメリカ西部へ直行しようとしても燃料の問題などが生じるため、日本を中継地点(寄港)にすれば効率が良くなるという狙いがありました。
そして2つ目は、「捕鯨船の停泊地・休養地として港を使いたかった」こと。
ペリーの日本遠征記には、当時の様子が次のように記されています。
吾が人民にして、日本沿岸に於て捕鯨に従事するもの甚だ多し。 荒天の際には、吾が船舶中の一艘が貴国沿岸に於て難破することも多い。 そのときは不幸なる人民を親切に迎え、その財産を保護してくれると期待するものなり |
石油が燃料の主軸となるのは19世紀の後半で、それまでは鯨から採取される油を活用していました。
当時、太平洋北部は世界的にも有名な鯨の捕獲地で、捕鯨に注力していたアメリカにとって日本は寄港地として条件が整っていたのです。