国産ワインの歴史が変わる?!初代熊本藩主・細川家の"自家製ぶどう酒"が年内に完成予定
画像:細川忠利の肖像(永青文庫)
ワインの歴史は実に古く、ロシアとイランに挟まれたコーカサス地方が発祥地で、起源は8000年以上も前と言われています。考えただけで途方もなく古い歴史があるわけですね・・・。
さて、そんな歴史あるワインですが、肥後熊本藩主の細川氏が、江戸時代の初期にブドウ科のエビヅル(ガラミ)で「ぶどう酒」を造っていたとみられる書物が2018年10月に福岡で見つかりました。
つまり、すでに細川家は江戸時代の初期に"自家製ワイン"を嗜んでいたわけですよ。この頃の藩主といえば、鬼と恐れられた戦国武将・細川忠興(妻はガラシャ)の息子、細川忠利(初代・肥後熊本藩主)ですね。
これまでの資料に細川家とワインの関係を示す文献は見つかっていなかったので、今回の発見は貴重な資料となりそうです。その内容について、2018年10月16日の毎日新聞に掲載された記事を参考に紹介したいと思います。
細川家のワイン、年内には完成予定
画像:五ケ瀬ワイナリー株式会社(宮崎県五ヶ瀬町)
福岡県みやこ町の町おこし団体「NPO法人・豊津小笠原協会」が、発見された細川氏のレシピを基に当時のぶどう酒を再現するという試みに乗り出したそうで、製造を手掛けるのは宮崎県五ケ瀬町の「五ケ瀬ワイナリー」。
もちろん原料も当時と同じ材料を使用し、五ケ瀬ワイナリーに持ち込まれたエビヅルは10キロで、年内には完成予定とのこと。400年以上の時を超えて、細川家の「ぶどう酒=ワイン」が蘇るというわけです。
細川家の書物によると、忠利が家臣に命じ、福岡県京都郡みやこ町犀川大村に自生していたエビヅルでぶどう酒を造ったとする記述があり、熊本大学は、時代背景などから「薬酒」として造られていたのではないかとの見解。
また、北九州市立の歴史博物館・元学芸員の永尾正剛さんは「永青文庫(細川家の史料を所蔵)」の古文書を調べ、ぶどう酒製造に関する論文として「細川小倉藩の葡萄酒製造」を執筆。
この論文を基に豊津小笠原協会がガラミの栽培に乗り出し、五ケ瀬ワイナリーの支配人・宮野恵さんが糖度と酸度を調べた結果、醸造可能という判断のもと、今回の"再現"が実現したとのことです。
エビヅル10キロで醸造される量は720ミリリットルのワインボトルで4~5本。
完成後にはみやこ町で公開が予定されており、豊津小笠原協会・理事長の川上義光さんは「みやこ町で細川家が葡萄酒を造った史実は貴重。町おこしに生かしたい」と話していました。
それにしても4~5本ですか・・・。飲める人は400年前の江戸時代にタイムスリップできるわけですね。
日本にワインが伝わったのは"いつ"?
画像:中公バックス「日本の歴史」別巻2(神戸市立博物館)
本格的にワインが日本に伝わったのは「幕末から明治にかけて」のことで、しかも製造が始まったのは試作が明治7年、醸造に成功したのは明治37年のこと。
細川家の自家製ワインは江戸時代初期ですから、やはり日本史としても貴重な発見なんですよね。
ちなみに、室町時代の頃までブドウは生食でしたが、日本の史料で初めてワインが登場するのは室町時代の後期。「後法興院記」に「珍蛇(ちんた)」という酒を飲んだとされる記述があります。
研究により珍蛇はスペインまたはポルトガルから伝わった赤ワインを指している可能性が高く、同時期の他の文献にも「南蛮酒」を飲んだという記述があり、いずれもワインであると考えられています。
室町時代の末期(1549年)、フランシスコ・ザビエルがキリスト教の布教で鹿児島を訪れた際、大名にワインを献上したとされ、その後、オランダやポルトガルとの貿易が盛んになるにつれてワインは広まっていきました。
ただし、自国での醸造を試みることはありませんでした。江戸時代になると甲州(山梨県)を中心にブドウ栽培が活発になり、浦賀沖に来航したペリーは時の徳川将軍(11代目)・家斉にワインを献上しています。
そして、明治時代に入り、政府は殖産興業の一環としてブドウ栽培とワイン醸造に本格的に取り組みだしました。
この頃の日本は米不足で、米を原料とした酒造りは控えたいという経済的な背景もあり、明治政府はワイン造りに前向きだったのです。ヨーロッパやアメリカからブドウの苗木を輸入し、山梨県を筆頭に各地でブドウの栽培とワイン醸造を奨励しました。
明治3年(1870年)に山梨県甲府市で山田宥教と詫間憲久が「ぶどう酒・共同醸造所」を設立し、甲州産のブドウを原料に日本で初めて国産ワインの醸造に試みます。
しかし、全財産を投じて試作・醸造を繰り返したものの、経営難に追い込まれ明治7年に廃業。ほかにもワイン造りにチャレンジした者たちがいましたが、ことごとく失敗に終わりました。
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