真の傾奇者ここに参上!己の道を傾奇通した「水野勝成」の波乱万丈な生涯
画像:賢忠寺「水野勝成の像」(国立国会図書館)
戦国時代、派手な格好や奇抜な言動で常識外れの行動が目立つ"アウトロー"を「傾奇者(かぶき者)」と呼んでいましたが、破天荒な振る舞いや我流を貫き通す人のことを「傾(かぶ)いている」と言っていたんです。
傾奇者と聞いて一番に名が挙がるのは前田慶次。しかし、これは漫画「花の慶次」の影響が強く、実際のところ慶次に関する史料は少なく、それら文献から「風変わりな人物であったかもしれない」という推測の域までなんです。
花の慶次では関ケ原で直江兼続らと共に戦い、長い朱槍を振り回しながら颯爽と馬で駆け抜けるシーンもありますが、この頃の慶次は70歳くらいでお世辞にも現役とは呼べない状態。
長生きで知られる毛利元就でさえ64歳のとき体調を崩して合戦では指揮を執るくらいでしたし、慶次も"年相応"な戦い方や生活をしていたのではないかと。傾奇まくっていたとは言えないような・・・。(ロマンを壊すようですみません)。
でも、安心してください!!「こいつは傾奇者だ」と胸を張って言える戦国武将がいました!表舞台に名が挙がる機会は少ないですが、知る人ぞ知る備後福山藩の初代藩主『水野勝成』です。
なぜ勝成が"真の傾奇者"なのか、今回は彼の傾奇者っぷりをドーンとお話ししたいと思います。
勝成、追放される
画像:正子公也武将画展「水野勝成の等身大屏風」(刈谷市総合文化センター)
勝成は水野忠重(徳川家康の母の叔父)の長男として1564年に生まれ、忠重と家康は従兄弟にあたる関係であり、家康から見て勝成は従兄弟の子供。つまり、親戚ということになりますね。
家柄が良く育ちも良いと思いきや、すでに10代で合戦に参加し、超人的な槍さばきで首級を挙げる(敵を討ち取って褒賞を得る)勇猛果敢な武将だったんです。
勝成は高天神城攻め(武田勝頼と徳川家康の戦い)で徳川軍として参陣し、数え切れないほどの首級を挙げ織田信長から戦功を称える書状までもらうくらい腕っぷしの強さは確かでした。
小牧長久手の戦いでは忠重から「危ないし品がないから兜をかぶって戦いなさい」と注意されても、「何言ってんだよ親父、このほうが身軽で動きやすいじゃないか」と聞く耳をもたず軽装に槍一本で暴れまくったとか。
豪傑さと見事な槍さばきで順風満帆の武将ライフを進めるかと思いきや、しばらくして勝成は忠重から追放(勘当)されてしまいます。「もう我慢の限界だ!もう俺の息子ではない!」と・・・。
日頃から理解しがたい破天荒な言動や横柄な態度が目立ったのが主な理由ですが、追放を決定づけたのは勝成が忠重の家臣を斬り殺してしまったこと。口ごたえするし腹が立ったから殺したみたいですが、これには忠重もご立腹。
しかも、追放されるときに勝成は「奉公講(破門と同じで、追放された者(浪人など)を他の人が雇わないように大名や武将に知らせるための回状(書状)。)」を受けてしまい、
言うなれば、「こいつヤバい奴で追放したから絶対に雇ったり面倒みたりしないでくださいよー」という通知ですね。
奉公講が出されるのは問題を起こした家臣や罪を犯した武士の場合が多く、自分の息子(しかも長男)に対して奉公講を出すのは前代未聞のケースだったようです。よっぽど忠重の逆鱗に触れたんですね。
勝成、放浪の旅に出る
画像:大垣城の戦いで水野勝成が加賀井から奪った日本刀「日向正宗」(出典:昭和大名刀図譜)
さて、追放され奉公講まで受け合戦で活躍することもできなくなった勝成ですが、そんなことでは落ち込みません。各地の戦場を放浪し、"もぐり"の武士として暴れまくります。
そんな矢先、豊臣秀吉が「四国を征伐する」という話を聞きつけて身分を偽り合戦に参加。腕っぷしの強さが目立って秀吉に正体がばれてしまい逃走するんです。
やっとの思いで流れ着いたのは九州、熊本。またもや身分を偽って佐々成政のもとで下級武士として出番を待つも、不運なことに成政が秀吉から切腹を命じられて自害。再び放浪しなければならなくなりました。
小西行長のもとで働き、また放浪して次は立花宗茂のもとへ、さらに黒田官兵衛のもとでも働いた勝成。どこにいっても軽く1000石くらいは褒美として与えられたというのだから、いかに腕っぷしが強かったか分かりますよね。
しかし、黒田家からも姿を消し、行き着いた場所は備中(岡山県)の領主・三村親成のもと。なぜか「客人」として泊めてもらっていた勝成は、ここでも三村家の茶坊主を斬り殺してしまい大問題になるかと思いきや・・・。
ちょうど秀吉が他界した頃で世間は不安定な情勢。三村家もバタバタ状態。その隙にドロンしたんです。
身分を偽りながら各地を転々するのに嫌気がさした勝成は、親戚の家康を頼って「次の天下狙ってるんだろ?俺を雇ってくれないか?役に立つぞ!」と申し出ます。(セリフの表現は手を加えているのでご理解を)
家康も勝成の武勇や腕っぷしの強さは知っていたので、できるなら仲間にしておきたい人材。そこで家康は、勝成と忠重を引き合わせて「もう仲直りしなよ」と和解させました。
無事に親子の縁が戻ったのも束の間、忠重が豊臣家の家臣・加賀井重望に暗殺されてしまうのです。血の気の多い勝成が、黙って見過ごすわけありません。
関ケ原の合戦における「大垣城の戦い」に参陣し(もちろん東軍として)、重望の息子を死に追いやって父の敵討ちを果たすわけです。この功績を家康に評価された勝成は三河国碧海郡刈谷愛知県刈谷市)の刈屋城を与えられます。
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