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徳川家康と江戸幕府。「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」の意味とは?

1603年2月12日、徳川家康が江戸に幕府を開いた。1600年に関ケ原の合戦で石田三成を下し、1615年の大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼすと、徳川家が政権を取り、江戸幕府が始まる。

徳川家康は伏見城で天皇の遣いが来るのを待っていた。午前10時頃に遣いが到着すると、伏見城の庭で儀式が行われ、征夷大将軍に任命する天皇の宣言書が家康に渡された(1603年)。

これにて、15代に続く徳川将軍が始まる。家康が「関白」ではなく「征夷大将軍」の地位を選んだのは、すでに関白の地位を授かっていた豊臣家(豊臣秀頼)と競うのを避けるため。

そして、豊臣家から独立し、将軍として各地の大名や武家のトップになるためでもあった。

方広寺の鐘銘事件

まず家康は、全国の大名に江戸城と市街地の造成を命じ、主従関係(俺がトップだ!)をはっきりとさせた。翌年1604年には国絵図と郷帳の作成を命じ、全国の領土を徹底的に管理する意向を示す。

それまでは各地域の大名が独自で管理していたので、これを家康が一括して把握することになるのだ。つまり、「お前の者は俺の者」的なジャイアンのような立ち位置を明確にした。

※国絵図・・・国単位の絵図。国を区切り、各国の領土を細かく区切った地図

※郷帳・・・国名・村名・村の収益を記した帳簿。田畑の状態や山林など詳細に記録した土地台帳

さらに、東海道や中山道などの主要街道を整備し、京都・伏見・大坂・堺・長崎の中心都市や港を幕府の領土と定め、石見・但馬・佐渡・伊豆の金、銀山も幕府の直轄地とした。

しかし、家康には解決しなければならない問題があった。豊臣家に仕える大名や武家も既存しており、徳川幕府に反抗的な態度をとる者もいたのだ。全国統一を目指す家康にとって厄介な問題。

ほかにも問題があった。関ケ原で西軍(石田三成)に味方した武家たちが豊臣家の復活を願っており、大阪城に集まり密かに合戦の準備を進めていた。

もちろん、この不穏な動きに家康は気づく。家康は秀頼を二条城に呼び出し、「徳川幕府に従うように大阪城に集まっている人たちに言ってよ」と打診するが、秀頼は好意的な態度を示さなかった。

このとき、秀頼は19歳。母親である淀殿の言いなりで、「私たちのほうが偉いんだから言うことなんて聞かなくていいの」と言われており、秀頼は家康に従うことなく大阪城へ戻る。

当然、家康はご立腹。「なんだ、あの態度は。あのガキ、ナメとるな」と。いっそのこと豊臣家を潰してしまおうとも考えたが、理由もなく合戦を起こすと天皇や大名たちが不信感を抱いて面倒なことになる。

そこで家康は考えた。何か”理由”をつくって豊臣家を滅ぼそう、と。そのシナリオとして選んだのが「方広寺の鐘」。俗に言う、1614年「方広寺の鐘銘事件」である。

豊臣家がリフォームした方広寺の釣鐘には「国家安康」「君臣豊楽」と書かれており、この文字が「家康を倒せば国が安泰する」「豊臣家を繁栄させよう」という意味がある、と秀頼に文句をつけたのである。

これが口実となり、家康は「打倒!豊臣家」を掲げて全国の大名や武家に召集をかけた。

豊臣家の滅亡で家康は全国統一を果たす

1614年11月19日に大阪城と周辺で合戦が始まり、徳川軍と豊臣軍で攻防戦が繰り広げられた。(大坂冬の陣)しばらくして、長期戦になることを嫌った家康は豊臣家に和解を申し出る。

しかし、これは家康の作戦であった。大阪の兵量(食べもの)を豊臣家が買い占めていたので戦いが長引くと家康は不利な状況になる。和解という名の”一時休戦”が狙いだった。

豊臣軍も多大なダメージを受けており、この和解は有難かった。だが、和解するには家康から提示された条件を了承しなければならなかったので、和解が成立するまでに16日の期間を要している。

<和解の条件>

・大阪城の外堀を埋める

・大坂城の「二の丸」「三の丸」を壊す

・豊臣家の領地は没収しない、今のままでOK

・豊臣秀頼と淀殿の身の安全を約束する

・豊臣軍に味方した者たちを罰しない

 

12月19日に秀頼は条件を呑み、和解が成立した。早速、外堀と二の丸・三の丸の撤去に取り掛かった家康。「費用がかかるから徳川家で工事するよ」と言い、作業を進めていく。

ところが、家康は外堀だけではなく内堀も埋め、大阪城は”剥き出し”の状態となった。これこそが家康の狙い。大阪城を無防備にすれば攻めやすくなり、短期戦で決着がつくと考えたのだ。

これを知った豊臣家は「約束が違う!」と抗議するが、家康は「どっちも埋めるって言ったよ」と知らんぷり。謝るどころか家康は、逆に秀頼を追い詰める。

大阪で豊臣軍の武士たちが暴れている、内堀を修復しようとしている、京都の町や伏見城への放火を計画している、といった文句を言い、秀頼に対して「大阪城を出ていきなさい」「豊臣軍の武士たちに罰を与えるから自首させなさい」と要求したのだ。

豊臣家は徳川家と戦う意向を示し、1615年5月6日に大阪夏の陣が始まる。豊臣軍は必死に応戦したが、丸裸にされた大阪城は簡単に攻め込まれ、5月7日に合戦は徳川軍の勝利で幕を閉じた

秀頼と淀殿は大阪城で自害し、死去。豊臣家は実質的に滅亡し、家康は全国統一を果たしたことになる。以後、徳川幕府は264年にわたり続き、1867年の大政奉還で終焉する。

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