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なぜ豊臣家は滅びたのか?戦国時代の終末期「豊臣政権の崩壊」と「関ケ原の戦い」 Vol.2

なぜ豊臣家は滅びたのか?戦国時代の終末期「豊臣政権の崩壊」と「関ケ原の戦い」 Vol.2


画像:石田三成之像(東京大学史料編纂所)

豊臣秀吉が病死すると石田三成は徳川家康と対立。オーナー不在となった豊臣政権は不安定になり、いち早く不穏な動きを見せたのが五大老の家康でした。

秀吉は生前に「領地を許可なく譲ったり貰ったりしちゃダメ」「ほかの大名や家来と勝手に縁を結んだらダメ」この2つのルールを徹底していましたが、家康は約束を破って暴走し始めます。

  前田利家の死


画像:前田利家像(金沢城公園)

家康は伊達政宗や福島正則と養子縁組し、直轄の家臣たちに戦備を整えるように指示を出しました。そうした動きを察知した三成は五大老と五奉行を集めて話し合い、家康に猛抗議。

面倒を避けた家康は素直に従い、養子縁組を解消しました。これを見た三成は「あの爺さんも意外と大したことないな」と大満足。豊臣政権の団結力は弱まっていないと安心するのでした。

しかし、ホッとしたのも束の間。五大老の前田利家が病死してしまいます。昔から秀吉は利家を頼りにしていましたし、ほかの大名や部下からも信頼されていた利家の死は豊臣家にとって大きなダメージです。

三成と家康の仲裁に入り、家康に養子縁組の解消を促したのも利家でした。あの家康が言うことを聞くくらいですから、利家の死は豊臣政権の存続を揺るがす分岐点になったと言えるでしょう。

参考:徳川家康は「前田利家」が苦手だった?一代で加賀百万石を築いた利家の生涯

その証拠に家康は利家の死後、一度は取り消した養子縁組を再び復活させました。さらに、兵を増幅したり城を改築したり、いよいよ天下取りを匂わすような行動を開始するわけです。

そこで三成は、各地の大名に家康の危険性を記した書状を送り、家康の暴挙を阻止しようとしました。

この書状に腹をたてた徳川家の家臣たちは、すぐさま三成の暗殺を計画。家康の指示なのか家臣たちの勝手な行動なのかは定かではありませんが、家康と三成の対立が明確になる出来事になりました。

しかも暗殺に乗り出した徳川の家臣は指折りの強者ばかりで、黒田長政、浅野幸長、池田輝政、細川忠興、加藤清正、福島正則、加藤嘉明といった戦国武将を代表するような面々が勢ぞろいでした。

  島左近と三成


画像:品之左近朝行-島左近(太平記英雄伝廿五-大英博物館)

かなりヤバいことになった三成は家臣の島左近(島清興)からアドバイスを受け、なんとか危機を回避。ちなみに左近のアドバイスは、「あえて家康の屋敷に逃げ込む」というものでした。

左近は三成に言う。

「裏で誰かが糸を引いているかもしれない。こちらに向かっている武将たちはいずれも強者ぞろいで石田家の武力では防げない。私が全力を出しても勝ち目はないでしょう」と。

「おい、左近。ならば俺にどうしろと言うのだ?」と、青ざめた顔で聞き返す三成。

「こうなれば講じる手段は一つ。京都にある家康の屋敷に逃げ込むのです」

これを聞いた三成は、さらに青ざめて左近に問いただす。

「おい左近、私が今、家康ともめているのを知っているだろ」と。

左近は鬼のような形相で三成に強く言った。

「もし家康の屋敷内で暗殺されたとなれば家康は周囲からバッシングを受ける。あれこれと変な噂も立つでしょう。しかも暗殺者は家康の優秀な家臣たちです。そんな事件が起きたら家康にとってはマイナスでしかない」

左近のアドバイスに従って家康の屋敷へと逃げ込んだ三成は、暗殺を回避することができた。

参考:秀吉の背中を追った石田三成。最後の大仕事「関ケ原の合戦」に何を求めていたのか?

こうして無事に暗殺を回避できた三成でしたが、騒動の責任をとらされ五奉行を解任。一方、暗殺未遂を起こした7人にも家康は罰を与え、平等な采配を下した家康は世間からの評価が高くなったのでした。

騒動の発端となった三成は失脚。五奉行の解任だけではなく佐和山で謹慎することになり、世間からネガティブなイメージをもたれることになりました。もし、こうなることを見越して家康が計画したのなら、やはり家康は末恐ろしい男ですね。

  関ケ原の戦いが勃発


画像:関ケ原之合戦跡(岐阜県不破郡関ヶ原町)

さて、謹慎中の三成は黙々と策を練って「どのように家康を征伐するか」を考え、計画がまとまると資金や人材の確保に動きます。なんとしてでも三成が獲得したかったメンバーが次の6人。

明石全登、安国寺恵瓊、直江兼続の3人。なぜ、この3人をターゲットにしたかというと、五大老の宇喜多秀家、毛利輝元、上杉景勝の側近だったからです。

●宇喜多秀家の家臣・・・明石全登
●毛利輝元の家臣・・・安国寺恵瓊
●上杉景勝の家臣・・・直江兼続

そして、豊臣家2代目の秀頼がいる大阪城を拠点にし、いよいよ家康との戦いが本格的に始まります。

毛利輝元を大将とした西軍は実質的に三成が指揮をとり、対する東軍の総大将は徳川家康。また、関ケ原の戦いと聞けば、岐阜県の関ケ原町で行われた合戦を思い浮かべますが、そうではありません。

関ケ原での合戦は”本戦”であり、東北や京都など各地で繰り広げられた小規模な合戦も総称して「関ケ原の戦い」と呼びます。では、本戦が開始するまでに、どれくらいの合戦が行われたのでしょうか。

各地でも西軍派と東軍派が対立し、今にも衝突しそうな雰囲気がプンプンしているなか、いち早く開戦したのが京都での合戦でした。これが、関ケ原の戦いにおいて最も早い”前哨戦”ということになります。

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