注目の記事ピックアップ!

信長公記・9巻その2 「天王寺の戦い」

信長公記・9巻その2 「天王寺の戦い」

信長公記・9巻その2 「天王寺の戦い」

画像:天王寺の砦跡

天王寺の戦い

三好・壇の部隊が木津(大阪市浪速区)で石山本願寺の一揆衆に敗北したことを知り、信長は旗本の家臣らに出撃命令を下して大坂に召集をかけた。そして信長は、それらの到着を待たずに自らが手勢を率いて出陣した。

1576年6月1日(天正4年5月5日)、明衣(神事や儀式などに着用する清浄な衣服)を着た信長は100騎ばかりの兵を率いて京都を出発し、若江(東大阪市の旧名)まで進んだ。

6月2日は若江に留まって軍勢が到着するのを待ったが、急な招集ということもあって遅延していた。武将らが先に到着し、その部下や兵たちが遅れてくるなど、思うように集まらなかった。

とはいえ一刻の猶予も許さない状況であり、天王寺かはら「あと3日か5日しか持ちこたえられない」との報告が届いていた。

信長は「天王寺の者たちを見殺しにして面目が潰れては無念」と、わずか3000ばかりの兵を率いて若江を出て1万5000の一揆衆が待ち構える天王寺へ向かい、軍を3つの部隊にわけて住吉(大阪市住吉区)から攻め入った。

なお、荒木村重を先鋒に指名したが村重は「木津の守備に専念したい」と断った。のちに村重が信長を裏切った際(1578年・有岡城の戦い)に信長は「荒木に先鋒を任せなくてよかった」と、このときのことを思い返したそうだ。

天王寺に進軍した信長は、佐久間信盛、細川藤孝、松永久秀、若江衆(東大阪市の勢力)の部隊を先鋒で出撃させ、続いて羽柴秀吉、稲葉一鉄、滝川一益、安藤守就、丹羽長秀、蜂屋頼隆、氏家直通が出陣し、後方からは騎馬隊や武将らが突撃した。

信長は先鋒隊の足軽たちに混ざって指示を出しながら駆け回り、総軍の指揮をとった。合戦の最中、信長は足に銃弾を受けて怪我を負ったが致命傷にはならなかった。

信長公記・9巻その2 「天王寺の戦い」
画像:織田信長の肖像(大雲院)

石山本願寺の鉄砲隊は数千人に及び、撃ち放たれる銃弾は降りしきる雨のようであった。しかし、織田の兵らは銃弾の中を奮戦して突き進み、砦で待つ明智光秀らの部隊と合流することに成功した。

しかし、一揆衆は大軍であり、体勢を立て直して天王寺の砦を攻囲してきた。家臣らは「敵は大軍だから守備を固めて籠城したほうが良い」と口々に言ったが、信長は「敵が間近にいるのは天が与えた好機なのだ」と言い、出撃の命を下した。

そして、先鋒と後方の2つに部隊をわけ、砦の外へ飛び出して奮戦し、一揆衆を次々と討ち取っていった。退却する敵を本願寺の門まで追撃し、2700あまりを討ち取ったのである。

天王寺の戦いは織田軍の大勝で幕を閉じ、信長は石山本願寺の周囲に4つの砦(出城)を築き、天王寺の砦には松永久秀、佐久間信盛、佐久間信栄、進藤山城、進藤久通、池田孫次郎(秀雄)、青地千代寿、山岡景宗、水野監物らを置いて守備させた。

さらに、住吉の浜辺の近くにも砦を設け、沼野伝内と真鍋七五三兵衛に海上の警備を命じた。信長は7月1日に大阪を出て、途中、若江(東大阪市の旧名)で一泊した。翌日、槙島(京都府宇治市)に立ち寄り、槙島を井戸若狭に与えた。

そのあと、妙覚寺(当時は京都市中京区二条衣棚。現在は上京区)に宿泊し、3日に安土山へ帰還した。

7月26日、安土城の建築について信長は度重なる指示を下した。家臣らや人員らは粉骨して働き、衣類や金銀、茶器や唐物の品々など、信長が与えた褒美は数え切れなかった。

たとえば、羽柴秀吉は名物の大軸(掛け物にした大きな絵)を拝領し、丹羽長秀は名物の絵を褒美として授かった。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • follow us in feedly

関連記事

  1. 信長公記・首巻その2 「織田信秀の死と聖徳寺の会見」

  2. 信長公記・首巻その11 「美濃統一と上洛」

  3. 信長公記・首巻その1 「織田信秀の時代」

  4. 信長公記・3巻その1 「金ヶ崎の戦い」

  5. 信長公記・9巻その3「第一次・木津川口の戦い」

  6. 信長公記・5巻その2 「織田信忠の具足初め」

  7. 信長公記・6巻その3 「足利義昭の追放」

  8. 信長公記・5巻その1 「三好義継の反乱」

  9. 信長公記・8巻その2 「長篠の戦い」

最近の記事

週間人気記事ランキング

  1. 登録されている記事はございません。

全体人気記事ランキング

おすすめ記事

PAGE TOP