信長公記・10巻その3「松永久秀の謀反」
画像:落合芳幾・画「松永久秀」の肖像(東京都立図書館)
松永久秀の謀反
大坂(大阪府)警固の要である天王寺の砦(天王寺区)には、松永久秀と松永久通(久秀の長男)が守備を任せられていた。ところが、1577年9月28日(天正5年8月17日)、松永親子は前触れもなく謀反を起こした。
天王寺の砦から抜け出し、大和(奈良県)の信貴山城(久秀の居城。生駒郡平群町)に立て籠もってしまったのである。信長は松井友閑を久秀のもとへ送り、「理由があるなら教えてほしい。望みがあるなら聞き入れる」と伝言を届けさせた。
しかし、松永親子が釈明に来ることはなかった。交渉は決裂し、信長は久秀が人質として差し出していた奉公人の子供2人を処刑するように命じた。
命令を下された福富秀勝と矢部家定は、永原(滋賀県野洲市)の佐久間家盛に人質の子供らを預けて京都へ連行させた。人質は、まだ12~13歳ほどの男子であり、いずれも優しく穏やかな風貌の子供たちだった。
京都に着いた子供らは村井貞勝(織田政権下の京都所司代)に預けられた。貞勝は子供らに「明日、内裏(京都御所)に連れていくから助命しなさい。髪を結って汚れていない服に着替えておきなさい」と伝えた。
しかし、子供らは「ご配慮に感謝します。でも、助命したところで助からないというのは分かっています」と答えた。
村井は、「故郷の親や兄弟に手紙を書きなさい」と勧めたが「書くことはありません」と断り、その代わりに佐久間家盛へ感謝の言葉を綴っただけであった。
しばらく日が経ち、人質の子供らは一条(京都市上京区)から六条河原に連れていかれ、河原には見物客が集まっていた。そして、子供らは河原の西に足を進めて静かに小さな掌を合わせ、念仏を唱えながら処刑された。
11月7日、織田信忠は軍を率いて出発し、蜂屋頼隆の居城である肥田城(滋賀県彦根市)に一泊し、8日に安土城へ入って9日まで丹羽長秀の屋敷に泊まった。
なお、この日の戌の刻(午後8時の前後2時間)、めったに見ることのできない「ほうき星」が西の空に現れた。
片岡城の戦い
画像:片岡城跡
片岡城(奈良県北葛城郡上牧町)には松永久秀の配下である海老名友清、森正友ら1万の兵が立て籠もっており、信長は明智光秀、筒井順慶、細川藤孝、山城衆(京都府南部の勢力)らを片岡城に向かわせた。
11月10日、織田軍は片岡城に攻め入り、細川忠興(15歳)と弟の細川興元(13歳)が一番乗りで城内に飛び込んだ。続くように武将や兵が城内へ突撃し、あっという間に天守の近くまで攻め寄せた。
しかし、敵兵も必死で、鉄砲と弓を駆使して抵抗した。敵将の海老名や森をはじめ、150あまりの敵兵が戦死した。細川の部隊も30名あまりの犠牲者を出したが、忠興と興元は武功が認められ、信長から感状を頂いた。
また、明智光秀も手に負傷を負い、屈強な兵を20名あまり失うなど、大いに奮戦した。
信貴山城の戦い
画像:信貴山城跡
11月10日、織田信忠はあづちょうを出発して山岡景隆の屋敷へ宿泊し、槙島(京都府宇治市)に入った。12日には信貴山城(松永久秀の居城。奈良県生駒郡平群町)を包囲し、城下を焼き払った。
一方、加賀(石川県南部)に向かった柴田勝家の軍隊は、手当たり次第に周辺の作物を薙ぎ倒して御幸塚(石川県小松市)に砦を築き、御幸塚砦の守備は佐久間盛政が任され、大聖寺(加賀市)にも砦を築いて12日に加賀から引き揚げた。
19日(天正5年10月10日)に信忠は羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀の配下を全て信貴山の諸所に配置させ、山頂へ上らせて夜襲を仕掛けた。
久秀も兵を出して防戦したが、ついに力尽き、自ら天守に火を放って自害した。
また、奈良の大仏殿(奈良市雑司町)が焼け落ちたのも19日(永禄10年10月10日)のことであり、これも松永久秀が起こした争い(東大寺大仏殿の戦い)によるものだった。
ちなみに、鳥獣さえ足を立てることが困難(険しい)と言われる信貴山城に、いとも簡単に信忠の軍勢が攻め込めたのは鹿の角の大立物(兜に付いている飾り)をかざしていたからと人々は噂した。
東大寺と縁が深い鹿が信忠にご利益をもたらしたのである。ほうき星の出現や鹿の大立物、久秀の死が大仏殿の炎上と同じ10月10日であったことなど、これらの偶然に関して人々は春日明神の御加護であると驚いていた。