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伊能忠敬が成し遂げた日本地図の作成は歴史に名を残す大偉業

日本一タフな男”toughGuy”「伊能忠敬」が成し遂げた日「本地図の作成」は歴史に名を残す大偉業

画像:伊能忠敬の像(富岡八幡宮)

歴史に残す人物は基本的に”タフ”(Tough)だが、なかでも江戸時代に生きたタフな男として思い浮かぶのが「伊能忠敬」ではないだろうか。伊能に関しては、一言で説明がつく。

日本地図の原型を完成させた男だ。伊能はコツコツと真面目に仕事をし、17歳の時に婿養子として酒造業(現在の千葉県香取市)を継いだ。伊能が継いだ酒造は婿養子になった当時、事業が上手くいかず赤字続きの状態。

これを伊能は立て直し、30年以上この酒造業切り盛りしていたが、ある日突然、息子に跡を継がせた。そして、伊能は息子に驚きの一言を放つ。

「私は今から江戸に行って学問を学ぶ。天文学を習得したいんだ」

この時、伊能は50歳。これがきっかけで、第二の人生が始まることになる。

チャレンジに遅いも早いもない

画像:伊能忠敬の肖像(伊能忠敬記念館)

50歳で天文学の専門校に入学した伊能。自分よりも20歳ほど年下の講師に学び、この講師も最初は驚いていたが伊能の真面目な態度や勉学と真剣に向き合う姿勢に感銘を受ける。

そもそも、なぜ天文学なのか。実は子どもの頃から夜空の星を眺めるのが好きだったのだ。そんな単純な理由?と思うかもしれないが、当時の人にとって空なんて未知の世界。

考えるだけ無駄、という感じ。星に興味をもち、空について、はたまた空の上には何があるかなんて真剣に考える人なんていなかったわけだ。だが、伊能は真剣に考えていた。

それは好奇心からくるものだったが、その反面、探求心が強かったと言える。やがて「地球の大きさ」が知りたくなった伊能は、江戸から北海道まで歩き、各地で星空を見ながら、転々とした。

しかし、江戸から北海道まで放浪するには幕府の許可が必要。それらしい理由がなければ認めてくれないし、「地球の大きさが知りたいから旅に出る」なんて通用するわけがなかった。

そこで伊能は、「幕府ために日本地図を作りたい」という名目で申請すると、承諾する。ただし、資金は出ないよ、と言われるが、はなっから当てにしていないので問題なし。

こうして伊能は地図を作るという名目で、地球の大きさを測る旅に出るのであった。

日本地図の旅に変わる

画像:伊能忠敬が使用していた車輪の回転を利用して距離を測る量程車(伊能忠敬記念館)

北海道に向けて旅出った伊能。毎日コツコツと歩測と測量器具を使いながら日々歩いた距離を測量していた。半年の測量を終え、江戸から北海道南部までの地図を作り上げる。

ちなみに測量とは、山や川、家や道路など、互いのの位置関係を正確に測ること。諸点の位置を定め、地形や地物を縮尺化し、表現図として地図や図面を作成する。

そして、数値や図面で表された諸点の位置を現地に設定する作業も測量と呼ぶ。道路と塀の境目などに矢印や十字の印がついたコンクリートの杭や金属のプレートは測量したことを示すものである。

画像:測量したあと示す目印

それは、誰も見たことがない完成度の高い地図であった。北海道から帰ってきた後も、伊能は何度も測量の旅に出る。やがて、念願だった地球の大きさを弾き出すことに成功する。

初めは地球の大きさを測ることが目的だった旅だが、いつしか目的は変わり「日本地図の完成」に向けた動きを見せていく。

まだ途中ではあったが伊能が作成した地図を見て、その緻密さに幕府は驚いたという。そこで幕府は、伊能に対して日本地図の作成を命じ、これは国家事業となった。

放浪の旅から一転、国家事業になった伊能の夢。そんなある日、測量の様子を見た庶民が「こんな地味な方法で地図を作っているのか」とバカにした。

確かに測量は地味で単純な作業だが、やろうと思ってもやれるものじゃない。なぜなら、タフな精神と持続できる集中力をもっていないと続かないからである。

すでに地図は存在していたが、伊能の地図と比べれば圧倒的な差。お世辞にも、クオリティが高いとは言えない駄作だった。単純に線で区切られただけの平面図といったところ。

どれくらい伊能がタフでずば抜けた集中力の持ち主だったかというと、伊能は17年休まずに測量を続け、各地を転々としては星空を眺めていたそうだ。

そして、各地を測量した記録は200枚以上。あとは全てを貼り合わせてつなげると一枚の日本地図が完成する。だが、一枚づつ日本地図を張り合わせる作業中に伊能は病気を患い、73歳で他界する。

このとき、伊能の弟子たちは誓ったという。

「師匠の死は、地図が完成するまで隠しておこう」と。そして、「完成したら師匠の名前で日本地図をお披露目しよう」と。伊能の死後、コツコツと作業を進めた。

貼り合わせると微妙にズレが生じる地図。せっかくち密に測量しているので、少しのズレも許さず、何度も修正を重ねた。伊能の死から3年後、ようやく日本地図が完成。

「大日本沿海輿地全図(ダイニホンエンカイヨチゼンズ)」と名付け、「伊能図」とも呼んでいた。伊能の作った日本地図は幕末の頃には外国人の手にも渡る。

画像:伊能図・渥美半島の「大日本沿海輿地全図」(伊能忠敬記念館)

外国人は伊能図をもとに測量し、その精度に驚く。とてつもなく正確で、緻密に記されており、こうして伊能は日本地図を作成した男として歴史に名を残したのである。

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