日本のみならず世界中の女性にとって欠かせない身だしなみが「化粧」です。古来より女性を中心に親しまれてきた化粧ですが、現代で知られているような「おしゃれ」という役割に留まらない効果があったことをご存知でしょうか?
この記事では、皆さんが意外と知らない「化粧」の歴史について解説していきます。
化粧の発祥は古代エジプトで、古墳時代には日本にも伝わる
そもそも、言うまでもないことですが「化粧」という文化は日本独自のものではありません。その歴史は非常に古く、一般には古代エジプトまでさかのぼると言われています。
皆さんもツタンカーメン像を見たことがあるかと思いますが、そこにはハッキリと「アイライン」の跡が存在します。
これは古代において化粧が存在していたことを示す証拠で、当時は王や神官といった特権階級の人々がその担い手でした。
化粧は顔料などに含まれる成分から日焼け止めや、虫除けの効果を期待される実用的な用法、肌を白く塗ることで労働に従事していないことを示す役割もあったとされています。
時代が下ると化粧という文化は世界中に広まっていき、日本に化粧が伝わったのは3世紀ごろのことだと言われています。
この3世紀という時代は、区分で言うと「古墳時代」に相当し、古墳から出土した品々に化粧の跡を確認することができるのです。
ただし、この化粧はもっぱら赤い塗料を用いて全身を装飾するというだけのもので、「赤色は身を護る」という信仰のもと呪術的な役割を期待されていました。
つまり、我々が知るところの「化粧」とは大きく異なるもので、おしゃれの一種として化粧が普及するのはもう少し後のことになります。
飛鳥時代以降は今に通じるメイクが登場
いわゆる「おしゃれ」を目的とした化粧が施されるようになったのは、聖徳太子などの存在で知られる飛鳥時代のことです。
この時期には隋との交流が盛んであったことをご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、その影響で化粧文化も伝来してきたと見るべきでしょう。
こうして取り入れられた化粧は、やがて唐風の文化がもてはやされるようになると唐のスタイルを取り入れたものへと変化していきました。当時は女性が顔を白く装飾し、口紅を施すのが一般的であったようです。
平安以降は国風の文化が尊重されるようになったため、化粧の役割や担い手が少しずつ変化していきました。化粧の方式が唐風から日本独自のものへと変化していったほか、貴族であれば女性だけでなく男性であっても化粧をすることは珍しくなかったのです。
さらに、古代から少しだけ存在した「お歯黒」という装飾が貴族の証として定着していくのも平安時代のことでした。
歯を黒く染めることで当時美しいとされた「小さな口元」を表現し、同時に顔に塗られた白粉を強調する役割もあったと言われています。
まとめると、平安時代には以後貴族たちの間で一般化する化粧のスタイルが確立され、それがやがて一般民衆にも広がっていくことになります。