日本初の銀行を創設した「三井財閥」の歴史を辿る(前編)
画像:三井本館、東京都中央区
もはや説明不要かもしれないが、財閥について少し前置きしておく。財閥とは、特定の一族が出資した資本を中心に結合した出来た大型の経営形態である。
つまり、単体の組織ではなく、同一資本の系列をもつグループ全体の総称が財閥ということになる。
たとえば、山本という人物が出資して10の会社をつくり、その傘下に30ずつ支店をつくると計300社のグループになる。こうして特定の人物が出資した資本を中心に結合した大型の経営形態が財閥だ。
実際には、もっと財閥の規模は大きい。日本で最も古い歴史をもつ財閥が「住友」と「三井」。その後、明治時代に急成長を遂げた「三菱」と「安田」をあわせて日本4大財閥と呼ばれている。
太平洋戦争後、1945年~1952年にかけてGHQにより財閥解体が行われ、日本から財閥は消滅したが、財閥系譜のグループ企業は数多く存在しており、現代も社会や経済に大きな影響を与えている。
当時の日本には主に15財閥が数えられるが、なかでも有力とされる「三井・住友・三菱・安田」の4大財閥は世界的にも知名度の高い財閥。今回は、そんな財閥にまつわる話を今回は紹介しよう。
昭和まで存在していた日本の四大財閥
画像:内藤新宿の復元模型(新宿歴史博物館蔵)
先にも述べたが、終戦後に財閥はGHQの施行により日本から消えた。なかでも規模や資本の大きかった4大財閥が三井・住友・三菱・安田である。
<三井財閥>
起源は1673年。伊勢の商人・三井高利が江戸(東京)で開業した越後屋三井呉服店(現在の三越)が始まり。今でも「三井」の名前が入った銀行や不動産、保険業や工業など広い分野の企業が三井財閥の継承である。
<住友財閥>
世界最古の財閥という説があり、蘇我理右衛門が銅吹所を設立し、その息子(友以)が商売を繁盛させ、銅精錬業から銅貿易へ、さらに輸入品の販売など多くの商業で財を築いた。今でも「住友」の名前が入った銀行や不動産、保険業や工業など広い分野の企業が住友財閥の継承である。
<三菱財閥>
三井と住友が300年以上の歴史に対し、三菱は140年ほど。土佐藩の岩崎弥太郎が設立した三菱商会が元祖と言われているが、不明な点が多く定かではない。今でも「三菱」の名前が入った銀行や不動産、鉄道や貿易業など広い分野の企業が三菱財閥の継承である。
<安田財閥>
富山県に生まれた安田善次郎が26歳で江戸に両替商を設立したことが始まり。安田銀行(現在のみずほフィナンシャルグループ)となり、損害保険ジャパンや明治安田生命保険など今でも「安田」の名前が入った企業は安田財閥の継承である。
さて今回は、この4大財閥から「三井財閥」にクローズアップして成り立ちや歴史を学んでみたいと思う。
小判から「円」の時代へ
江戸時代の「お金」は徳川幕府が製造した金貨(慶長小判など)や銀貨(慶長丁銀など)、銅銭(寛永通宝)が基本で、ほかにも各藩が発行する藩札(地域ごとの紙幣)が使用されており、とにかく”金勘定”が複雑だった。
それは明治に入っても引き継がれ、通貨の改善を検討した明治政府は「新貨条例」を発し、これまでの旧貨幣と新たに作った新貨幣を交換することによって新貨幣の製造に必要な金や銀を確保した。
その交換業務を請け負っていたのが財閥になる前の三井(当時の名称は三井組)だった。ちなみに現在ではお馴染みの「円」という単位は、1871(明治4)年に定められたもの。
旧貨幣は不揃いの楕円形や長方形だったが新貨幣として統一したのは西洋の丸い銀貨で、そのまま丸い円状の見た目から「円」という単位がつけられたそうだ。
また、英語でENではなくYENと表記されている理由は、中国語のユアン(円)という発音が由来になっているとか。さらに、¥の表記はドル($)やポンド(£)の通貨記号の影響を受けている。
江戸時代が終わると同時に明治政府は新貨幣(太政官札)を発行したが、旧幕府が発行した金貨や銀貨、銅銭などが多く流通していた状況で、そのほかにも藩札が使用されることも多かった。
主流になっている旧貨幣を直ぐに新貨幣に切り替えることは困難で、複雑な貨幣制度を整理するために明治政府は1871年6月に「新貨条例」を公布する。
この条例の目的は新貨幣の普及、そして旧貨幣の速やかな回収であった。そのための方法が旧貨幣と新貨幣の交換であり、三井が「両替商」として引き受けていた。
日本初の銀行「国立銀行」が誕生
画像:海運橋 第一国立銀行(東京都中央区立京橋図書館)
当時、三井のほかにも小野、島田、鴻池もあったが、三井組の大番頭・三野村利左衛門の営業努力によって金銀の回収と新旧貨幣の交換業務を三井が単独で請け負うことに成功している。
1871年7月からは「大蔵省推奨新貨幣交換所」を掲げ、三井銀行の設立を大蔵省に提案。しかし、大蔵省の伊藤博文が国立銀行の設立を提案したため、三井の銀行設立は実現しなかった。
1872年、政府は三井組と小野組を合併させ、それぞれが100万円ずつを出資して「三井小野組合銀行」を設立。この銀行が、のちに設立される国立銀行の第一号店となる。
そして、アメリカのナショナル・バンク(銀行制度)を参考にした「国立銀行条例」を制定し、1873年6年6月、日本初の商業金融機関として「第一国立銀行」が設立された。
国立という名称だが実際には三井と小野の出資による銀行で、つまりは民間企業であり、井上馨や渋沢栄一など政府の役職者も関与していたが実質的には三井が指揮をとり運営していた。
また、第一国立銀行は三井組が所有する日本橋海運橋にある「三井組ハウス」が本店となり、国立銀行条例の制定に尽力した渋沢栄一が国立銀行の初代頭取に任命された。
以後、横浜と新潟、大阪の3ヶ所に支店が設立され、最終的に国立銀行は全国153ヶ所まで拡大。たとえば、2号店が第二国立銀行、100号店が百国立銀行など、頭に数字をつけて区別していた。
ちなみに、現在も残っている「十六銀行」や「第三銀行」などは、当時の国立銀行を継承した銀行である。そうした頭に数字が付いた銀行を「ナンバー銀行」と呼んでいる。
画像:十六銀行 名古屋支店
●現存するナンバー銀行(本店所在地)
・第三銀行 三重県松阪市・・・昔の第三国立銀行
・第四銀行 新潟県新潟市・・・昔の第四国立銀行
・十六銀行 岐阜県岐阜市・・・昔の第十六国立銀行
・十八銀行 長崎県長崎市・・・昔の第十八国立銀行
・七十七銀行 宮城県仙台市・・・昔の第七十七国立銀行
・八十二銀行 長野県長野市・・・昔の第八十二国立銀行
・百五銀行 三重県津市・・・昔の第百五国立銀行
・百十四銀行 香川県高松市・・・昔の第百十四国立銀行
その後、1874年に三井組は第一国立銀行の業務から離脱し、1876年、単独の民間金融機関としては日本初となる「三井銀行」(現在の三井住友銀行)を自己資金で創立した。
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