画像:長岡京ガラシャ祭のマスコットキャラクター「お玉ちゃん」(長岡京ガラシャ祭実行委員会)
「散りぬべき時を知りてこそ 世の中の花も花なれ 人も人なれ」
これは、細川ガラシャが死の間際に言ったとされる辞世の句である。
戦国時代に名の上がる女性といえば、織田信長の妹「お市」や、その娘である「江」、豊臣秀吉の本妻「寧々」、東国無双の女として武勇伝が語り継がれている「甲斐姫」などだろう。
しかし、その一方で、あまり表舞台に登場することなく埋もれている女性もいる。ガラシャも、その一人だ。
彼女の人生は数奇な運命としか言いようがない。不運という言葉では片づけられない、過酷な運命を背負って生きた。そして、死に際も壮絶な最期を迎えている。
細川ガラシャを襲った2度の不運
画像:細川ガラシャ生誕の地(明智神社)
ガラシャは明智光秀の三女「珠(たま)」として越前(福井)で生まれ、父の光秀は織田信長に仕えていた。珠が15歳になると、信長の仲介により細川忠興のもとへと嫁ぐことになる。
この時、明智の姓から細川になるわけだが、夫婦とても仲が良く2人の子供も授かり、幸せに暮らしていた。ところが、ある事件をきっかけに穏やかな生活が崩壊してしまう。
珠が19歳になった年の6月、父の光秀が本能寺の変を引き起こし、信長を暗殺してしまうのである。これにより事態は一変、反逆者の娘となってしった珠は忠興や子供と離され、京都で監禁されてしまう。
やがて豊臣秀吉の時代がやって来ると、秀吉の取り計らいにより珠は忠興のもとへと戻ることが許された。
家族のもとへ戻っても、どこか上の空の珠。その姿を心配した忠興は、生前の信長に聞かされていたキリスト教のことを思い出し、その話を聞かせて元気づけようとした。
その話に興味をもった珠はこっそりキリスト教徒のもとへ足を運ぶようになり、しばらくしてキリスト教を深く信仰するようになった。しかし、光秀の一件以来、珠は秀吉の家来から監視されている立場にあり、自由に行動することが許されていなかった。
そんな矢先、またもや事件が起こる。秀吉が「バテレン追放令」を出したのだ。これは、キリスト教の信仰を禁止する法令。つまり、キリスト教と関わったら罰するし、そもそも禁止するという命令だった。
追放令という言葉が付いているくらいなので、当然ながらキリスト教徒は町を歩けない。もし見つかったら捕えられ、痛い目に遭うのはわかりきっていた。
このとき、まだ珠はキリストの洗礼を受けていない。自問自答した結果、珠は隙を見計らって教会へと急ぎ、グレゴリオ・デ・セスペデス神父の洗礼を受けキリスト教徒となる。
画像:聖マリア大聖堂外側正面の細川ガラシャ像(彫刻家-阿部政義 作)
さらに、「神の恵」という意味をもつ「ガラシャ」の名前を授かった。もちろん、公には名乗れないのだが。
それまで短気で気の強かったガラシャだが、キリストの洗礼を受けてからというもの謙虚で忍耐強い女性へと様変わりしたという。忠興は秀吉の家来という立場にあり、夫に迷惑をかけたくなかったため、ガラシャという名前は隠し続けている。
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