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桶狭間や長篠の戦いはフィクションだった?「織田信長」と「6月」と「雨」の不思議な関係

桶狭間や長篠の戦いはフィクションだった?「信長」と「6月」と「雨」の不思議な関係


画像:織田信長の肖像(長興寺)

人それぞれに訪れるターニングポイント。戦国時代の転換期となった人物といえば織田信長ではないでしょうか。そして、信長の場合、最初のターニングポイントになったのが「桶狭間の戦い」でした。

その10年後、金ヶ崎の戦い(退き口)で瀕死の危機に陥るも、5年後の長篠の戦いでは武田勝頼を破り、備中高松城では秀吉が水攻めに成功し、いよいよ天下統一が現実味を帯びてきた矢先、本能寺の変で他界しました。

そして、これらの出来事には"ある共通点"があるんです。すべて「6月」に起きているということ。驚くことに生まれたのも6月。今回は、信長と"6月"の数奇な関係にクローズアップしてみましょう。

6月と信長

まず、こちらをご覧ください。

1534年6月23日・・・信長、生まれる
1560年6月12日・・・桶狭間の戦いで今川義元に勝利
1570年6月3日・・・金ヶ崎の退き口で危機を脱して京都に生還
1575年6月29日・・・長篠の戦いで武田勝頼を滅ぼす
1582年6月20日・・・秀吉が備中高松城の水攻めで有利に立つ
1582年6月21日・・・本能寺の変で他界

6月に生まれ6月に没し、ほかにも、ターニングポイントになった出来事が6月に起きているのですが、ただの"偶然"では片づけられないくらい不思議で、面白いことに信長は「梅雨」とも縁があったみたいなんです。

悪天候を味方にした桶狭間の戦い


画像:歌川豊宣・画「尾州桶狭間合戦」(名古屋市図書館)

戦国時代の転換期になった桶狭間の戦いは、信長にとっても人生のターニングポイントになった出来事です。

一般的な通説では、3万以上の今川軍に信長が3000人の兵で奇襲※をかけて勝利した、とされていますが、近年の研究では「奇襲による攻撃」ではなく「正面から突撃した」という説が有力になりつつあります。

※今川軍が休憩中に奇襲し、乱戦に乗じて本陣の今川義元を討った

國學院大の藤本正行さんの見解(著・信長の戦争 「信長公記」に見る戦国軍事学)によると、

  • 信長公記に"奇襲"に関する記述はない
  • 義元の本陣は標高60メートルの高台にあり、見晴らしが良いから奇襲が成功するとは考え難い

とのこと。また、信長公記には合戦の当日に急な雹(ひょう)が降り、風向きの影響で今川軍は顔に雹を受けながら戦い、織田軍は雹を背にするかたちで戦っていたと記録されています。

ちなみに、近年の研究では雹ではなく時期が梅雨であることから豪雨という見方が強いようです。しかし、雹は6月に降る傾向があるので、雹であった可能性はゼロではありませんが。

このことから織田軍は有利な状況で戦えていたことが分かり、今川軍は総崩れとなり、その混乱に乗じて信長は義元がいる本陣を一気に攻めたのではないかと言われているんです。

さらに、信長が少数の兵で勝利できた理由の一つは、今川軍の編成部隊のほとんどが戦闘要員ではなかった可能性が高いこと。つまり、農民や村人の寄せ集めで"見せかけ"の兵士が多かったというわけです。

研究者の推測によると、まともに戦える正規の武士は1000人にも満たなかったのではないか、とか。では、なぜ奇襲説が定着していたのかというと、明治初期(1898年)に日本陸軍が作成した「日本戦史-桶狭間役」が発端です。

藤本さんの見解によると、江戸時代の初期に発刊された小瀬甫庵の信長記に書かれていた内容を明治陸軍が転記したことで奇襲説が流布し、以降も定着したのではないかと言われています。

梅雨なのに雨が降らなかった長篠の戦い


画像:長篠合戦図屏風 (名古屋徳川美術館)

桶狭間の戦いから15年後、信長の天下統一に王手をかける合戦となった長篠の戦い。織田と徳川の連合軍4万(諸説あり)と武田軍2万(諸説あり)が衝突した歴史的な合戦です。

通説では、織田軍の鉄砲隊VS武田軍の騎馬隊という構図で、信長の鉄砲隊3千挺が千挺ずつの3段構えで連続撃ちしたことが武田軍に壊滅的なダメージを与えたとされています。

ところが、この説についても桶狭間の奇襲説と同じように見直されているんです。つまり、長篠の3段撃ちはフィクションではないか、と。

現実的に考えて1段あたり千挺の鉄砲隊が横に配列すると2キロ(1.5~2メートルの間隔をあけて)の長さになり、それを指揮するのは複数の研究者の意見でも、ほぼ全員一致で非現実的だそうです。

千挺の指揮だけでも難しいのに、スムーズに3段撃ちを実行するのは至難の技。よって、3段撃ちは物理的に不可能ではないかと推測されています。

とはいえ、信長公記にも記述されているように長篠の戦いにおいて鉄砲隊が活躍したのは間違いなく、武田軍の実質的な指揮者であった名称・山県昌景も鉄砲による狙撃で討ち取っています。

そのため、近年の見解では、「実際に使用された鉄砲の数」「どのように鉄砲隊が稼働していたか」が重要な論点となり、これまで言われてきた3千挺や3段撃ちは明治時代に創られたフィクションの可能性が高いというわけです。

そもそも3千挺の銃を揃えること自体が難しく、たとえ銃があったとしても「火薬」に使用される3千挺分の「硝石」を用意するのが困難なのです。硝石は価格もバカ高くて生産も追いつかないですから・・・。

現実的に見積もって用意できた銃と 硝石は織田軍が1000~1200挺、徳川軍が300~500挺というのが妥当です。

信長公記には鉄砲奉行として前田利家・佐々成政・野々村正成・塙直政・福富秀勝の5人が記されていますし、それぞれの鉄砲奉行が100挺ほどの鉄砲隊を率いて分散し、各方面から武田軍を狙撃していたという見方が現実的。

さらに興味深いのが、合戦が行われていた時期は梅雨で、雨が降ると火縄銃は役に立ちません。ところが、この日に限って雨が降らず(ちょうど梅雨明けという説もある)、またしても信長は"天気"を味方につけたということですね。

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