桜田門外の変は「開国」をめぐる対立が発端?なぜ井伊直弼は殺された?
画像:桜田門外之変図(茨木県立図書館)
1860年3月24日AM9:00頃、水戸藩を脱藩した尊王攘夷派(反幕府派)の武士ら18人が彦根藩の行列を襲撃し、駕籠(かご)に乗った幕府の要人・彦根藩主の井伊直弼を暗殺した。
この歴史的な事件が「桜田門外の変」である。この日は雪が降っており、要人の警護隊は全身に雨具を身に着けつけていたため、身軽に動けず襲撃を防ぐ邪魔になってしまった。
桜田門外の変が起きて以降、倒幕派の動きが強まっていく。やがて薩長同盟や大政奉還へと時代は流れ、戊辰戦争で徳川幕府は終焉した。桜田門外の変は、その序章になった事件と言えるだろう。
事件当日の状況
画像:桜田門外之変図(茨木県立図書館)
3月24日AM8:00、井伊直弼は護衛に守られながら自宅(彦根藩上屋敷)を出発。自宅は桜田門から400メートルほどで、護衛隊20人と世話や雑用係40人の総勢60人の行列だった。
実は前日、水戸藩を脱藩した武士らが不穏な動きをしているとの情報が入っていたにも関わらず手薄な警護であったことがわかる。事件は、自宅を出てすぐの場所で起こった。
お偉いさんの行列ということもあり、町は見物人であふれていた。その見物客たちに紛れて水戸藩の脱藩武士(水戸浪士)ら18人は身を潜め、待機していた。
井伊を駕籠(かご)に乗せた行列が左折して桜田門へ入ろうとしたところで水戸浪士の森五六郎が行列の前に立ち、進行を止める。それが襲撃開始の合図だった。
護衛隊が前方の森五六郎に近づいたとき、水戸浪士の黒沢忠三郎が井伊の駕籠に向けて銃弾を放つ。すぐさま堀側から6人、屋敷側から8人の水戸浪士が井伊を乗せた駕籠を狙って襲い掛かった。
銃撃で負傷した井伊は駕籠から出れず、さらに駕籠の外から容赦なく刀で突かれ、すでに瀕死の状態。井伊は駕籠から引きずり出され、薩摩藩士の有村次左衛門が首を切り落とした。
当時の様子を記録した文献によると、襲撃から殺害に至るまでの所要時間は3分ほど。殺害現場は自宅から350メートルの距離で、目的地の桜田門まで50メートルほどだったという。
事件を聞きつけ50名の彦根藩の武士が駆けつけたが、水戸浪士はすでに姿を消したあと。鮮やかな手さばきや段取りなどからみても、練りに練った計画的な犯行であったことは間違いない。
桜田門の外で起きたことから、「桜田門外」の変と呼ばれている。
水戸浪士は逃げきれたのか?
画像:桜田門外之変図(茨木県立図書館)
幕府の重職である井伊直弼を殺害したのだから、捕まれば当然ながら死刑である。では、その後の水戸浪士たちは逃げきれたのだろうか。結果を言えば、ほぼ全員が捕まって死刑になっている。
事件後、井伊直弼の首は薩摩藩士の有村が持ち去ったが、重傷を負っていた有村は逃走中に遠藤但馬守の屋敷前で自害しており、当日に井伊の首を彦根藩が遠藤から回収している。
森と有村を除く襲撃に参加した水戸浪士16人のうち、1名が現場で死亡、4人が自害、負傷した8人が自首しており、関鉄之介や岡部三十郎ら残り3人は薩摩軍と合流するために京都へ向かった。
しかし、京都で待っていた薩摩藩の幹部らは「協力できない」と事前の打ち合わせを”なかったこと”にしたため、水戸浪士は幕府から追われる身となり、やがて捕獲され小伝馬町の牢で斬首された。
なぜ水戸藩は井伊直弼を狙ったのか?
画像:井伊直弼之像(狩野永岳-彦根城博物館)
水戸藩には幕府に対して反発する浪士(攘夷派)が大勢いた。反幕府を産んだ発端は、「開国(外国との貿易を始める)」をめぐる幕府幹部らの対立が関与している。
開国を推奨する幕府の幹部と、開国に慎重な姿勢を見せる水戸藩主の水戸斉昭(徳川斉昭)は対立。これに対し、幕府の大老・堀田正睦は水戸の意見を取り入れながら中立の立場として慎重に開国の問題にあたっていた。
しかし、幕府の派閥や開国派の策によって堀田が幹部から外されてしまう。堀田の後任として大老に選ばれたのが彦根藩主の井伊直弼であった。井伊は中立的な堀田とは違い、主観的に開国を推し進めていく。
1858年6月4日に大老に就任した井伊は、7月29日に「日米修好通商条約」を個人の裁量(ほぼ独断)で締結するなど、半ば強引に開国の実現を進めていく。
条約締結に反発した水戸斉昭は8月2日に息子の徳川慶喜を、3日には越前藩主の松平慶永と尾張藩主の徳川慶勝を井伊のもとに押しかけたさせたが効果はなかった。
画像:徳川斉昭之像(京都大学付属図書館)
一方の井伊は、大老の立場から8月4日に徳川幕府の第14代将軍に紀伊藩主の徳川家茂を推奨し、これが実現すると8月13日に将軍の命令と題して水戸とその関係者を幕府の政治から追放した。
この一方的な井伊の処置に不満を抱いた薩摩藩主の島津斉彬は、直ちに兵を連れて将軍に意見しようとしたが道中において原因不明で急死してしまう。
島津は徳川慶喜に敬意を示していたため、幕府の政治から慶喜が追放されたことを知って不満を抱いたのだ。島津の死を聞いた孝明天皇は、島津の代わりに水戸へ幕府へ出向くように指示を出す。
天皇としても”幕府に好き勝手にやられると厄介”なので、穏便な解決を望んでいたと言える。9月14日に孝明天皇は「戊午の密勅」を発して、幕府の政治体制を批判する。
天皇が政治に関与するという前代未聞の事態となり、怒り狂った井伊は「水戸が天皇をそそのかした」と理由をつけて水戸藩の関係者を片っ端から捕獲していくのだった。
そして、始まったのが1858年~1859年にかけて続く「安政の大獄」である。井伊は、天皇の政治関与を水戸斉昭の入れ知恵と決めつけ、水戸藩の関係者と天皇に敬意を払う者たちに圧力をかけ、弾圧した。
こうした背景が水戸藩と幕府の大老・井伊直弼の間に確執を生み、やがて暴走した水戸浪士によって桜田門外の変へとつながっていくというわけだ。
なぜ桜田門外の変は成功したのか?
画像:桜田門
安政の大獄は、あくまでも井伊直弼が画策した「水戸斉昭の追放」を目的に始めた政治行動だったが、世間には「慎重な開国運動を主張する若者への弾圧」と受け取られてしまう。
世間の声や批判が高まるなか水戸藩に対する井伊の弾圧は過激になっていき、水戸藩の家老・安島帯刀に切腹を命じておきながら実際には処刑するなど、一方的な弾圧はエスカレートしていく。
そんな矢先、井伊の独裁に不満を抱く薩摩藩の一派から「井伊直弼の暗殺計画」が水戸藩にもちこまれた。当初の予定では、薩摩藩と水戸藩の共同という計画だったが、事件は水戸藩の単独犯として処理される。
井伊の暗殺を実行したあと、薩摩藩は京都で兵を挙げて水戸藩をバックアップするという約束だった。しかし、桜田門外の変が起きた直後に水戸藩の高橋多一郎や庄左エ門が薩摩軍を頼っても約束通りに兵を挙げることはなかった。
つまり、薩摩藩は最初から関与するつもりはなく、水戸藩はそそのかされたわけだ。水戸浪士の実行犯は幕府から追われる身となり、ほぼ全員が処刑されている。
そして、この不穏な動きを幕府側も事前にキャッチしていたという。では、なぜ暗殺が成功したのだろうか。それは、「天候」と「作戦」が決め手となっている。
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