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信長公記・8巻その1 「河内攻め」

信長公記・8巻その1 「河内攻め」

信長公記・8巻その1 「河内攻め」
画像:今川氏真(静岡県史)

道路工事

1574年(天正2年)の末、信長は織田領内の大規模な道路工事を決定し、各国へ通達した。奉行(責任者または現場監督)として篠岡八右衛門、高野藤蔵、坂井文介、山口太郎兵衛の4名が選任され、道路の整備を進めさせた。

工事は1575年2月(天正3年1月)から開始され、3月に入って次々と完成していった。道路工事に伴い、入江や川岸には舟橋も設けられ、険しい細道は平らに整備して石が敷かれ、大道に生まれ変わった。

工事に際して信長は道幅を三間半(およそ6.3メートル)と定め、道の両側には松と柳を植え、その土地の住民が道の掃除を日課にした。

また、信長は以前より関税(関所を通るときに支払う税金。交通の要所を通過する人や馬、船や荷物に対して課す通行税)を廃止していたため、これまで人の行き来を妨げていた障害は取り払われた。

信長が行った治政(政治)に対して人々は「ありがたき幸せ」と手を合わせ、信長の配慮に感謝した。

4月8日、信長は京都に向け岐阜城を出発し、垂井(岐阜県不破郡垂井町)に泊まった。あいにく翌日は雨だったので連泊し、10日に佐和山(彦根市)にある丹羽長秀の屋敷に入った。

そして、12日、永原(滋賀県長浜市)で一泊して13日に京都へ到着した。京都では相国寺(京都市上京区)に滞在することが決まった。滞在中の4月26日、信長のもとへ珍しい客人が訪れた。

その客人とは今川氏真(いまがわうじざね。今川氏12代当主、父は今川義元)である。氏真は百端帆(またの名を帆布百反。平織りで織られた厚手の布)を信長に贈答し、挨拶を述べた。

ちなみに氏真は、過去にも千鳥と飯尾宗祇の香炉を信長に贈答したことがあるが、信長は千鳥の香炉だけを受け取って飯尾宗祇の香炉は返している。

対面の際、信長は氏真が蹴鞠(けまり)が得意と聞いていたので披露してほしいと願い出た。

30日、再び氏真は相国寺を訪れ、三条西実枝と息子、飛鳥井雅春と息子、高倉永相と息子、五辻為仲、広橋兼勝、烏丸光康、庭田重保が氏真と共に蹴鞠を披露した。

宮中の修復

以前に信長は荒れすさんだ宮中(皇居)を大改修して復活させた。しかし、それからも朝廷は経済難に苦しんでおり、朝廷は所領する土地などを売って生活しているような状況だった。

そこで信長は5月の下旬(近代の研究では4月中旬~末とみられている)、丹羽長秀と村井貞勝に指示して人手に渡っていた朝廷の土地を回収させた(徳政を行った)。これにより信長は朝廷の再興に多大な貢献をしたのであった。

なお、5月の上旬、武田勝頼の軍隊が三河の足助(愛知県足助)に侵攻したという報告が信長に届き、息子の信忠が織田の家臣と兵を引き連れて交戦に向かった。

河内攻め・新堀城と高屋城(誉田城)

信長公記・8巻その1 「河内攻め」
画像:高屋城跡

5月15日、信長は京都を出て南方へ下って三河に向け出発し、八幡(京都市下京区)に陣を構え、16日は若江(大阪市岩田)で陣を構えた。

途中、敵方の萱振城(大阪府八尾市)を通過し、17日に三好康長(三好義継の家臣)が立て籠もる高屋城(誉田城。大阪府羽曳野市)に攻め寄せた。

織田軍は城下を突き進んで不動坂で守備する三好の部隊と交戦し、先鋒で奮戦していた伊藤二介(兄は信長の家臣である伊藤与三右衛門)が体中に手傷を負って討死にした。

信長は家臣たちの勇姿を駒ケ谷山(羽曳野市)の山頂から見ていた。

織田軍は道明寺(羽曳野市)の河原まで進んで陣を構えて夜を明かし、信長は柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀、原田直政に指示を出して高屋城の近隣の村に放火させ、田んぼや畑の作物を薙ぎ倒した。

そして21日、信長は住吉(大阪市住吉区)へ移動して、22日に天王寺(大阪市天王寺区)へ入った。

畿内(山城国・摂津国・河内国・大和国・和泉国)、近江(滋賀県)、若狭(福井県小浜)、尾張(愛知県西部)、美濃(岐阜)、伊勢(三重県の北中部)、丹後・丹波(京都府北部と中部)、播磨(兵庫県西部)、根来寺(和歌山県岩出市)から戦力が信長のもとへ集結し、それぞれ住吉、天王寺で陣を構えて戦備を整えた。

23日、織田の総勢10万余りは大阪に攻め入り、25日には遠里小野(住吉区の一部)まで進軍して陣を構えた。信長は遠里小野でも田畑を薙ぎ倒し、自らも兵に混ざって作物を薙ぎ倒した。

遠里小野を先に進むと三好氏の砦である新堀城(大阪市住吉区長居東)があり、香西越後守・十河因幡守が兵を率いて守備していた。信長は26日に新堀城を包囲し、攻撃を仕掛けた。

攻撃を開始してから2日後(28日)の夜、織田軍は堀を草で埋め、城内へ火矢を放ち、大手・搦手から城内に攻め入って城を落とし、敵方の香西越後守を捕らえた。

縄で縛られた香西は織田軍の本陣に連れてこられ、口をゆがめて目線を落としながら織田の家臣や兵が立ち並ぶ中を歩いて信長のもとに差し出された。

時刻は夜中だったが、信長は直ちに香西の処刑を命じた。新堀城の戦いでは香西のほかにも腕の立つ武将がおり、藤岡五郎兵衛、十河越中、三木五郎大夫、十河因幡守、東村大和、東村備後、十河左馬允らに織田の兵170余りが討ち取られた。

新堀城が陥落したあとも高屋城に立って籠っていた三好康長は松井友閑(元は室町幕府12代将軍・足利義晴の家臣。その後、信長の家臣)を通じて信長に降伏を申し入れてきた。

信長は降伏を認め、織田の家臣・原田直政に指示を下して高屋城のほか、河内国の城を取り壊して廃城させた。30日、信長は京都で数日ほど滞在し、政務を行った。6月5日、岐阜城へ帰還するために京都を出た。

最初の予定では坂本(滋賀県大津市)で明智光秀が手配した船に乗って佐和山(滋賀県彦根市)へ入るはずだったが、この日は強風だったので経路を変えて常楽寺(滋賀県湖南市)で下船し、陸路で佐和山へ入った。

6月6日、辰の刻(午前8時の前後2時間)に岐阜城へ到着した。

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