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信長公記・6巻その3 「足利義昭の追放」

信長公記・6巻その3 「足利義昭の追放」

信長公記・6巻その3 「足利義昭の追放」
画像:足利義昭の肖像(東京大学編纂所)

槙島城の戦い

二条の座所(旧二条城。京都市上京区)を制圧した信長は8月13日に槙島(京都府宇治市槇島町)へ進軍し、柳山(宇治市五ヶ庄)に陣を構えた。

そして、信長は家臣の武将らに、「ただちに宇治川を越えて槙島を攻め落とせ」と指示を下した。しかし、宇治川は激流として有名な川であり、簡単に渡れないことは周知の事実だった。

躊躇する武将らに信長は、「どうした?怖いのか!もたもたしているなら俺が最初に渡ってやる」と言い、それを聞いた武将らは覚悟を決めるしかなかった。

織田軍は二手に分かれ、宇治川を渡り始め、一方の部隊は平等院(宇治市蓮華)の北東(宇治川の川上)を進軍した。この川上は源平の時代、源の家臣である梶原景季と佐々木高綱が先陣を競って争った場所として有名だ。

なお、川上から進軍した織田の部隊は、稲葉一鉄、稲葉貞通が先陣となり、斎藤新五、氏家直通、安藤守就、不破光治、不破直光、丸毛長照、丸毛兼利、飯沼勘平、市橋長利、種田助丞、種田彦三が平等院の近辺に火を放った。

もう一方の部隊は、五ヶ庄(宇治川の川上から少し下流)の前を流れる川を渡った。なお、五ヶ庄の後方部隊は、柴田勝家、羽柴秀吉、明智光秀、佐久間信盛、丹羽長秀、荒木村重、細川藤孝、細川忠興、蒲生賢秀、蒲生氏郷、蜂屋頼隆、進藤山城守、京極高次、永田刑部少輔、山岡景隆、山岡景宗、山岡景猶、後藤喜三郎、多賀新左衛門、平野長治、山崎源太左衛門、小河孫一、弓徳左近兵衛、青地千代寿、永原筑前守、池田孫次郎で編成された。

8月15日の御前10時頃、二部隊は一斉に中島(宇治川の西)を目指して進軍した。無事に川を渡ると、信長は少しほど馬や兵を休ませた。休憩後、全軍は足利義昭が立て籠もる槙島城へ攻め寄せた。

織田軍の来襲を知った義昭は足軽を出陣させた。織田軍は城から出てきた足軽兵を蹴散らし、佐久間信盛や蜂屋頼隆らの部隊が50余りの敵兵を討ち取った。

その勢いで城に突撃し、四方を包囲し、火を放った。そもそも義昭は、槙島城が堅固であると考え二条から移動したのだが、瞬く間に窮地に追いやられ敗北したのであった。

信長公記・6巻その3 「足利義昭の追放」
画像:織田信長の肖像(長興寺)

もはや義昭の命も終わりかと思われたが、信長は義昭を討ち取らなかった。義尋(義昭の息子)が人質として差し出されたあと、義昭は若江城(大阪市若江南。三好義継の居城)に送り届けられ、道中の警護を羽柴秀吉が務めた。

数年前に義昭が若江城を訪れたときは信長の配慮で大勢の武将や奉公人が列をなして威風堂々な姿だったが、この度の若江城への護送は哀れなものであり、それを見た人々は"貧相な将軍"と嘲笑っていた。

自業自得とはいえ、その光景は、あまりにも哀れだった。槙島城には細川昭元を入城させ、信長は兵を引き連れて槙島(宇治市槇島町)の南方を焼き払い、8月18日に京都へ足を運んだ。

このとき、比叡山の麓・一乗寺(京都市左京区)には義昭の配下にあった渡辺宮内少と磯貝新右衛門が立て籠もっていたが、義昭の降伏に便乗して彼らも降伏した。

磯貝は紀伊国(和歌山県和歌山市)で謹慎の身となり、しばらくして処刑された。ほかにも、静原山(京都市北区)に砦を築いて立て籠もる山本対馬守には明智光秀が出陣し、攻囲して攻め落とした。

義昭の討伐により織田軍が行った放火で町人が困惑したことは明白であり、これに対して信長は配慮として地子銭(年貢の一種)や雑税などの支払いに猶予を与えた。

勢の徴収が延期されたことで街の復興も早まり、京都の町は焼き討ちする前の状態に戻っていた。所司代(行政機関の一つで京都の治安を守る役職)は村井貞勝が任命され、信長も数日ほど京都に滞在して政務を行った。

木戸城・田中城の戦い

8月23日(近年の調べでは24日とみられている)、信長は京都を出発して坂本(滋賀県大津市下阪本)へ進軍し、坂本で大船に乗り換えて高島郡(滋賀県高島市)に向かった。

また、織田軍の中には陸で進軍している別部隊もいたため、それらと連携を取りながら敵が立て籠もる木戸城と田中城(大津市木戸)へ攻め寄せた。

信長は馬隊に攻撃命令を出し、怒涛の勢いで攻撃を仕掛けた。しばらくして敵兵は降伏し、城から撤退した。

木戸城と田中城には明智光秀が入城し、信長は浅井長政、浅井久政(長政の父)が所領する高島郡内の土地に進軍し、林与次左衛門(林員清)の領地である打下(高島市勝野)に陣を構えた。

そして陣から兵を出陣させ、浅井の領地に火を放たせた。

岩成友通の最期

信長公記・6巻その3 「足利義昭の追放」
画像:落合芳幾・画「岩成友通」(東京都立図書館)

足利義昭に加勢した岩成友通、諏訪飛騨守、番頭大炊頭が淀城(京都市伏見区)に立て籠もっていた。諏訪と番頭は、すでに羽柴秀吉が調略して服従させることに成功していた。

残る岩成を打つために信長は細川藤孝ら織田の部隊を出陣させた。細川隊が淀城に攻め寄せると、岩成は応戦して突撃してきた。このとき、諏訪と番頭が岩成から離れて戦線離脱すると岩成は孤立してしまった。

それでも岩成は織田勢に立ち向かったが、細川の家臣・下津権内に討ち取られて戦死した。下津は岩成の首を打下の陣地に持ち帰り、信長に差し出した。

下津の姿を見た信長は深く感心し、着用していた胴着を下津へ与えた。京都、近江、大阪での討伐戦に区切りをつけた信長は、8月31日に岐阜城へ帰還した。

阿閉貞征と浅見対馬の内通

9月4日、近江の阿閉貞征(浅井長政の家臣)が信長に服従(内通)を申し入れてきた。

信長は深夜にも関わらず岐阜城から出陣して月ヶ瀬城(滋賀県虎姫町月ヶ瀬)を攻め落とし、6日には山田山(長浜市西浅井町と湖北町にまたがる山)に軍勢を終結させ、近江(滋賀)から越前(福井市越前)に通じる道を塞いだ。

越前から近江に向けて進軍していた朝倉義景の兵2万は浅井軍が待つ小谷(長浜市湖北町伊部)に入ることができず、余呉、木之本、田部山(長浜市余呉町~木之本町)の辺りで停滞するしかなかった。

さらに、浅井久政(長政の父)が小谷山に築いた焼尾の砦を守っていた浅見対馬も阿閉に便乗して信長に服従(内通)を申し入れてきた。

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