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信長公記・6巻その5 「北伊勢の平定」

信長公記・6巻その5 「北伊勢の平定」

信長公記・6巻その5 「北伊勢の平定」
画像:小谷城跡

朝倉の滅亡

刀根坂の合戦で大勝を収めた信長だったが、その矢先、朝倉景鏡(朝倉義景の従兄弟)が朝倉義景を切腹に追い込み、介錯は朝倉の家臣・鳥居甚七と高橋甚三郎が行い、この二人も自害した。

1573年9月20日(天正元年)、朝倉景鏡は織田の本陣である竜門寺(福井県武生市)に義景の首を持って参上した。また、義景の母親と息子の阿君丸も見つけ出され、丹羽長秀が処刑した。

信長は長谷川宗仁に指示して義景の首を京都の獄門に吊るさせた。そして、越前国の掟を定めて前波吉継を越前国の守護代に任命した。22日、信長は虎御前山(滋賀県長浜市)へと引き返した。

小谷城の陥落

信長公記・6巻その5 「北伊勢の平定」

画像:浅井長政の肖像(長浜歴史博物館)

9月23日の夜、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)は小谷城の京極丸(浅井長政が守備する本丸と父・浅井久政が守備する小丸との間に位置)に攻め入り、浅井親子を孤立させたあと、久政が立て籠もる小丸に突撃した。

逃げ場を失った久政は切腹したが、介錯を行った鶴松大夫(久政が目をかけていた日本舞踊の舞の名手)も直後に自害した。秀吉は久政の首を虎御前山の本陣に運び、信長の首実験を受けた。

24日、信長は兵を率いて京極丸に出撃し、浅井長政と赤尾清綱(赤尾美作守)は自害し、小谷城は陥落した。長政の首も京都の獄門に吊るされ、10歳になる長政の息子・万福丸は捉えられて関ヶ原(岐阜県)で処刑された。

この度の戦いで功績を認められた羽柴秀吉には近江(滋賀県長浜市)が与えられた。

9月29日、信長は佐和山(滋賀県彦根市)に入り、六角義治が立て籠もる鯰江城(東近江市鯰江町)の攻略を柴田勝家に命じた。直ちに柴田は挙兵して鯰江城を包囲し、これに義治は降伏した。

近江国、各所の平定に成功した信長は10月1日に岐阜城へ帰還した。

杉谷善住坊の成敗

信長公記・6巻その5 「北伊勢の平定」
画像:善住坊かくれ岩(滋賀県東近江市甲津畑町)

1570年(元亀元年)、六角承禎に信長の暗殺を依頼された杉谷善住坊は、信長が千草峠(滋賀県東近江~三重県に繋がる山)を越える際、22メートルほどの距離から信長を鉄砲で狙撃した。

杉谷善住坊は銃の名手だったが、放たれた二発の銃弾は信長の体をかすめただけで大事に至らなかった。

杉谷は六角氏の家臣である鯰江香竹に守られ近江国高島郡堀川村(滋賀県高島市)の阿弥陀寺で身を隠していた。しかし、10月5日に織田の家臣・磯野員昌に捕らえられ、岐阜へ護送されてきた。

祝弥三郎と菅谷長頼が厳しく取調べを行い、千草山での狙撃について善住坊を問い質した。取調べの末、善住坊は刑に処されることとなり、道に生き埋めにされ通行人が鋸(のこぎり)で罪人を引くという鋸引きの刑となった。

北伊勢の平定

信長公記・6巻その5 「北伊勢の平定」
画像:多芸山(養老山の山頂)

10月19日、信長は北伊勢で生じた一揆の鎮圧するために岐阜城を出発し、道中で大垣(岐阜県大垣市)に一泊したあと、20日には太田(岐阜県海津市)の小稲葉山に陣を構えた。

さらに、西からは丹羽長秀、佐久間信盛、羽柴秀吉、蜂屋頼隆が兵を率いて21日に八風峠~おふぢ畑(滋賀県神崎郡永源寺町~三重県三重郡菰野町へとつながる道)を通って桑名(三重県桑名市)に入った。

そして、それら4人の武将は西別所(三重県桑名市西別所)の砦に立て籠もる北伊勢の一揆衆を攻め立て、難なく砦を落とすと多くの敵を斬り捨てた。

また、柴田勝家と滝川一益は坂井城(桑名市坂井)に立て籠もる片岡掃部を攻めて降伏させ、31日には深矢部郷(桑名市深谷部)の近藤城を攻め、坑道を掘る掘削人たちを動員して城攻めを行い、降伏させた。

11月2日、信長は東別所(桑名市東方字尾畑)に陣を移した。織田の進軍を知った伊坂、赤堀、千草、長深、田辺、萱生、桑部など近隣の土豪らや、田辺九郎次郎・三枝昌貞といった地元の武将が次々と信長に人質を差し出し、織田への服従および忠節を申し入れてきた。

そのような中、白山(三重県津市白山町)の中島将監だけは信長のもとに顔を出さず、すぐさま信長は柴田、羽柴、蜂屋、佐久間に指示して将監の白山城を攻めた。

城の周りに築山(人工的に造る小さな山)を造り、ここでも掘削人たちを動員して総攻撃した。織田の猛攻に戦意を失った将監は降伏した。

一方その頃、京都では明智光秀が静原山(京都府南丹市美山町)に立て籠もる山本対馬の謀殺に成功し、対馬の首を東別所の本陣に持って参上した。以前から対馬は信長に反抗的で、服従を促しても聞き入れなかったのである。

敵対する者は容赦なく成敗され、信長の勢いは留まることを知らなかった。この結果、信長は北伊勢を平定し、伊勢長島一揆衆の過半数を成敗することに成功した。

信長は矢田城(桑名市矢田)を築いて滝川一益を入城させ、11月19日、岐阜への帰還を予定に支度を始めた。しかし、予期せぬ事態が起きてしまう。

帰還の道中は左手には深々と草木が生い茂った多芸山(養老山の旧名。岐阜県養老郡と大垣市上石津町にまたがる山)があり、右手には水かさが深い川が入り混じり葦草(よしくさ)が生い茂った難所で、多芸山と川に挟まれた中央の一本道は蛇行していた。

その道を織田軍が進行中、伊賀・甲賀から駆け付けた一揆衆の残党が攻撃を仕掛けてきたのである。鉄砲と弓矢を備えた一揆衆が山中に散らばり、織田軍の行く手に先回りして道の要所を塞いだ。

そして、一揆衆は無数の矢を織田軍の頭上に放った。なお、この日は雨が強く降っていたため、鉄砲は役に立たなかった。

北伊勢の平定が嘘かのように状況は一変し、織田軍は不意な一揆衆の猛攻により不利な戦況となった。織田の兵らは各所で交戦し、毛屋猪介(元・朝倉の家臣)など四方の敵を相手に奮戦し、多大な武功を挙げた。

信長は戦況を打開するために林新次郎(林秀貞の息子)を殿(しんがり。撤退する際に最後尾で敵と交戦する役割)に任命し、防戦に力を注いだ。

新次郎は信長の期待に応えるように抗戦し、必死に踏みとどまって追ってくる一揆衆を食い止めた。信長をはじめ本隊は無事に危機を回避できたが、林新二郎とその部下らは全滅した。

これは、まだ尾張が統一されていない時代の話だが、新二郎の部下である賀藤次郎左衛門は弓を持って敵を仕留め、弓の名手として広く知られる者であった。殿でも攻め寄せる敵を次々と弓で射止めて奮戦し、主君の新二郎と共に見事な戦死を遂げた。

この日は昼から夕暮れまで強い雨が降りしきっており、討ち取られる者以外にも凍死する兵も多かった。信長は夜中に大垣(岐阜県大垣市)まで進んで停泊し、20日に岐阜城へと帰還した。

若江三人衆の謀反

信長公記・6巻その5 「北伊勢の平定」
画像:土佐光吉・画「三好義継の肖像」(京都市立芸術大学)

11月28日に信長は岐阜を出て、12月4日に京都へ到着し、妙覚寺(以前は京都市中京区二条にあった)に宿泊した。

その頃、若江城では三好義継の家臣である池田丹後守、多羅尾右近、野間佐吉(若江三人衆)が話し合い、信長に反抗する義継を見限って織田に服従(内通)する意向を固めていた。

まず若江三人衆は義継から軍の指揮を任せられていた金山駿河を謀殺し、織田の家臣である佐久間信盛を城内に引き入れた。佐久間が率いる兵と若江三人衆は天守に攻め寄せた。

佐久間の侵入と若江三人衆の裏切りを知った義継は「もはや、これまで」と諦め、自らの手で妻と子を殺害して抗戦したが、やがて死を覚悟すると腹を十字に斬って自害した。

敵ながら見事な戦いぶりで勇ましい死に様だった。あとを追うように家臣の岡飛騨守、那須久右衛門、江川某も自害した。若江城は若江三人衆に預けられ、信長は数日ほど京都に滞在したのち、12月25日岐阜城へ帰還した。

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