徳川将軍の平均寿命は何歳?徳川幕府265年の基盤になった3つの”策”とは?
画像:徳川家康公之絵(徳川美術館)
もはや説明不要の徳川家康。幼少時代は静岡で人質生活を送り、やっと20歳前に解放されて地元の愛知に帰れたのに織田信長が勢いよく天下統一を目指していて危険なムード。
信長と清洲同盟を結んで敵対するのを回避するなど、何かと気苦労の多かった家康。本能寺の変で信長が死去すると、秀吉は信長の息子を味方につけて数年後に天下統一。
そんな光景に苛立ちを抱えながらも豊臣家の重役として家来になる家康。やっと秀吉が死んで自分の番かと思いきや、秀吉を崇拝していた石田三成が戦いを挑んできて面倒なことに・・・。
そんなこんなで三成を関ケ原の戦いで退治すると、ようやく家康は天下統一を成し遂げました。苦労の末、やっと手にした地位と名誉。そう簡単には終わらせたくはありません。
その地位を揺るぎないものにするために家康は色々と策を講じ、最終的には265年にわたって徳川幕府は続くことになります。今回は、そんな徳川幕府に関する”ちょっとした小ネタ”をお話ししますね。
徳川将軍の平均寿命は何歳?
画像:徳川家康三方ヶ原戦役画像「顰像」(徳川美術館)
1600年に徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利すると、家康は後陽成天皇から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命され、江戸に幕府を開きます。つまり、徳川幕府(江戸幕府)の始まりです。
征夷大将軍とは天皇家に関係する重職で、これによって徳川将軍が政権を握るようになり、15代まで続く徳川将軍は天皇に政権を返す(大政奉還)まで265年にわたり繁栄しました。
単純計算すると265年÷15人で一人あたりの将軍歴は17.7年ですが、実際には任期が短い将軍もいて、15代目の慶喜は最短で1年。では、徳川将軍の平均寿命は何歳だったのでしょう。
その答えは「51.4歳」で、なんと将軍歴が最も短い慶喜が最も長生きしているという皮肉な結果に・・・。そもそも慶喜は他の将軍とは異なり、徳川幕府の終わりによって任期が終了しているので仕方ないですが。
初代将軍・・・徳川家康(1605年まで)将軍歴2年2ヶ月、75歳で死去
2代将軍・・・徳川秀忠(1623年まで)将軍歴18年3ヶ月、54歳で死去
3代将軍・・・徳川家光(1651年まで)将軍歴27年9ヶ月、48歳で死去
4代将軍・・・徳川家綱(1680年まで)将軍歴28年9ヶ月、40歳で死去
5代将軍・・・徳川綱吉(1709年まで)将軍歴28年5ヶ月、64歳で死去
6代将軍・・・徳川家宣(1712年まで)将軍歴3年5ヶ月、51歳で死去
7代将軍・・・徳川家継(1716年まで)将軍歴3年1ヶ月、8歳で死去
8代将軍・・・徳川吉宗(1745年まで)将軍歴29年1ヶ月、68歳で死去
9代将軍・・・徳川家重(1760年まで)将軍歴14年6ヶ月、51歳で死去
10代将軍・・・徳川家治(1786年まで)将軍歴26年4ヶ月、50歳で死去
11代将軍・・・徳川家斉(1837年まで)将軍歴50年0ヶ月、69歳で死去
12代将軍・・・徳川家慶(1853年まで)将軍歴16年2ヶ月、61歳で死去
13代将軍・・・徳川家定(1858年まで)将軍歴4年8ヶ月、35歳で死去
14代将軍・・・徳川家茂(1866年まで)将軍歴7年9ヶ月、21歳で死去
15代将軍・・・徳川慶喜(1868年まで)将軍歴1年0ヶ月、77歳で死去
さて、265年も続く徳川将軍の基盤を築いた家康ですが、どのようにして徳川幕府の権力と地位を確立したのでしょうか。戦国時代に逆戻りしては元も子もないわけで、権威を知らしめる必要があったのです。
それでは、家康が徳川将軍の基盤を築くために行った3つの策についてチェックしてみましょう。
その1 大名の資金力を減らす!
画像:平成館(東京国立博物館)
江戸時代、全国各地には「大名(だいみょう)」と呼ばれる資金を持った家柄が存在していました。現在で言うと「セレブ」や「お金持ち」の家系。
そもそも、お金持ちになる理由は「稼げる環境がある」からです。そこで家康は「大型船での貿易を禁止」しました。現代でもそうですが、当時、貿易は最も手早くお金を稼ぐことのできる手段でした。
しかし、資金が無ければ船を動かすこともできませんし、大名でしか貿易業は行えなかったのです。征夷大将軍の家康が出した命令なので各地の大名も逆らうことができず、従うしかありませんでした。
そして家康は、徳川家で貿易業を始めて大儲けします。次に、各地の大名に寺や神社などの建物をリフォームさせて、お金をどんどん使わせました。
そのなかでも一番お金を使わされた大名が豊臣家。そればかりか、豊臣家が改築した「方広寺の釣鐘(つりがね)」に文句を言って豊臣家を滅ぼしてしまいます。
1614年と1615年に行われた大阪冬の陣、夏の陣です。この事件によって一番の資金を持っていた豊臣家が消滅すると、徳川家は日本で最も資金力のある立場になったのです。
その意思を継ぐ3代目将軍の家光はそのほかにも「参勤交代」で大名たちの出費を増やさせる策を考案。1年に1度、各地の大名が交代で江戸と自分の城を行き来して、幕府の身の回りの世話をさせるという行事。
参勤交代の当番が回ってくると「勘弁してくれよー、金は飛んでいくし体力も疲労するし面倒くさー」と嘆いていたわけで、さらに大名のパワーは削られていくことになりました。
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