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これぞ忠義の武将!主君・後醍醐天皇に命を捧げた「楠木正成」とは?

これぞ忠義の武将!主君・後醍醐天皇に命を捧げた「楠木正成」とは?


画像:狩野山楽・画「楠木正成の肖像」(楠妣庵観音寺)

鎌倉時代、「賢才武略の勇士、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」と称えられた英雄がいました。後醍醐天皇を支え、鎌倉幕府にピリオドを打つべく命を燃やした武将、「楠木正成(くすのきまさしげ)」です。

正成が成し遂げたかったこと、それは"信条"を守ることでした。自分が信じた"義"のために命を捧げた馬鹿正直で熱い男、それが楠木正成です。今回は、忠義の武将「楠木正成」の生涯にクローズアップしてみましょう。

楠木正成の忠義


画像:後醍醐天皇の肖像(清浄光寺)

楠木正成は鎌倉時代の後期から南北朝時代にかけての武将で、鎌倉幕府9代目・守邦親王の討幕を掲げた後醍醐天皇に一早く応じ、千早城(正成の居城)に攻め寄せる幕府の大軍を見事な戦術で打ち破ったことで有名です。

城壁から岩や大木を落としたり熱湯をかけたり当時としては斬新な戦術を用い、わずか1000人の兵で10万人の幕府軍(新説戦乱の日本史33より参照)に勝利しました。

これにより正成の知名度は一気に高まり、鎌倉幕府が滅びると後醍醐天皇が主導で「建武の新政」※を行いますが、天皇の政策に不満をもつ者も多く、次第に足利派と天皇派の二大権力に分裂してしまいます。

※建武の新政(元弘の乱)

足利尊氏や新田義貞、楠木正成らを味方につけた96代の天皇・後醍醐天皇は1333年に鎌倉幕府を滅ぼし、建武という新しい時代が幕を開け、後醍醐天皇は幕府や摂関を廃止し、天皇や公家を中心とした政治を行いました。

「建武」という時代に「新しく」始めた「政治」なので建武の新政と呼ばれているわけです。

しかし、この政治で恩賞の不公平や現実味のない経済政策などを推し進めたため、後醍醐天皇に不満をもつ武士を従えた足利尊氏率いる反乱軍と朝廷で戦争が勃発。この一連の流れが「元弘の乱」です。

 

実力者であった足利尊氏は朝廷に匹敵する武力も備えており、やがて増幅していく足利軍は後醍醐天皇にとって脅威となる存在でした。尊氏になびく者が増えるなか、正成はブレずに後醍醐天皇への忠義を貫き通します。

そして1335年、ついに尊氏が新政から離反して反乱を起こすのです。後醍醐天皇は新田義貞に尊氏の討伐を命じましたが箱根・竹ノ下の戦いで敗北。しかし、京都で待ち構えていた正成や北畠顕家らが奮戦し、足利軍を撃退しました。

敗れた尊氏は九州へ逃れましたが翌年には軍を編成し、光厳上皇の院宣※を得て再び京都へ出陣。正成は後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言しましたが後醍醐天皇は拒み、義貞と正成に尊氏の討伐を命じるのです。

つまり、この院宣を得たことで尊氏は"朝敵"=反乱者ではなく光厳上皇の許しを得た官軍になりました。この時点で後醍醐天皇が率いる軍と楠木軍は「南朝」となり、光厳上皇の院宣を得た尊氏は「北朝」側となります。

よって、「南北朝」の戦いが幕を開けることとなり、この時代を南北朝時代と呼ぶわけですね。

※院宣・・・上皇(退位した天皇)が院司(朝廷ので働く職員)を通して発行(発給)する文書

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