真田氏のプライドを懸けて挑んだ真田幸村「大坂の陣」(後編)
画像:真田幸村の肖像(上田市立博物館)
徳川と豊臣が戦闘モードに入ったことは九度山で幽閉中の幸村の耳にも届きました。そして、秀頼の部下が密かに九度山へ侵入し、豊臣に加勢するよう幸村を誘います。この要請に応え、幸村は九度山を脱出しました。
なぜ幸村は大阪城への出陣を決意したのでしょうか。それには諸説ありますが、結果からみると「死に場所を探していた」というのが妥当な見解かと思われます。つまり、「最期に一花咲かせて散ろう」と初めから死ぬ覚悟だったのです。
幸村の決意「いざ、大坂の陣へ」
画像:九度山駅
九度山で老いぼれながら何もできず死ぬよりも、武士として死ぬことを選んだ幸村。なぜなら、おそらく幸村は"勝ち目がない戦"というのを初めから分かっていたのではないでしょうか。
幸隆や昌幸が猛将と渡り合ってきたように"真田のプライド"を最期まで突き通し、足跡を残そうとしたのではないかと。当時の武将にとって、歴史に名を刻むことは大切なことでした。
その証拠に、追い詰められても降伏せず自害を選んでいたのですから。プライドと引き換えに命を捨てていた時代なのです。
とくに幸村の場合、群雄割拠の戦国時代を小勢力ながらも生き抜いてきた真田氏のプライドがあり、何もせず"ただ死を待つ"というのは選択肢になかったでしょう。
さらに、「家康を討つ」「秀頼を守る」といった明確な大義名分があり、死に場所として申し分なかったと思います。大坂の陣が勃発したことで、幸村は「最後の大勝負に命を懸けた」というわけです。
この想いは幸村に限らず、たとえば後藤又兵衛や長宗我部親守など他の武将たちも同じ。そして、大坂冬の陣では、まさに"真田氏の軍法(戦術)"の集大成ともいえる「真田丸」で幸村は家康を翻弄することになるのです。
大坂冬の陣「真田丸」
画像:黒田屏風「大坂夏の陣図屏風」真田軍の合戦風景(大阪城天守閣)
九度山を脱出して大阪城に入った幸村や後藤又兵衛、毛利勝永らは積極的に野戦にて応戦することを秀頼に主張しましたが、ガードが堅い大阪城の造りを理由に淀殿や大野治長らは籠城策で挑むことを決定します。
しかし、幸村は大阪城の弱点を見抜いていました。石山本願寺の跡地に建てられた大阪城は、ただ豪華なだけではなく合戦に備えた機能を備えており、守りが堅い城でもありました。
ただ、南方からの攻撃には弱かったのです。そこで幸村は、南から徳川が攻めてくると想定し、平野口に出城(砦)を築き、その出城に自らが入って合戦の指揮をとります。そう、「真田丸」です。
そして、1614年11月3日、豊臣勢10万と徳川軍20万が衝突する大坂冬の陣が幕を開けます。
まずは木津川口の砦で戦闘が始まり(木津川口の戦い)、次いで鴫野・今福の戦い、博労淵の戦い、野田・福島の戦いで両軍が激突しますが、劣勢の豊臣勢は全軍が大坂城に撤退し、籠城戦で迎え撃つ準備をしました。
徳川の全軍は完全に大阪城を包囲。家康は威圧をかけ、降伏させるのが狙いだったと言われています。このとき、真田丸には1万7千の兵が待機していました。
真田丸の攻略を命じられた徳川の家臣・前田利常が真田丸付近で準備を始めると、篠山(真田丸の前方にある丘)から真田の鉄砲隊が狙撃して妨害。
焦った利常は真田丸の攻略を一旦中止して篠山に向かってしまいます。前田軍が篠山に到着すると、すでに真田軍は撤退した後でそこには誰もいませんでした。翌朝、これを見た真田の兵たちは前田勢を嘲笑って挑発。
もちろん、幸村の作戦通りです。利常は家康から攻撃するなと言われていたにも関わらず、まんまと挑発に乗ってしまった前田の家臣が準備もままならないまま真田丸への攻撃を開始。
無防備で真田丸を目掛け攻め寄せる前田軍に幸村は鉄砲隊で大打撃を与え、壊滅的なダメージを与えました。まさに、昌幸が上田合戦で用いた戦法と同じでした。
結果、大坂冬の陣は秀頼が家康の条件をのむ形で和解で幕を閉じますが、そのときに真田丸は取り壊されています。しかし、この和睦は家康の作戦で、翌年には大坂夏の陣が勃発することになります。
この記事へのコメントはありません。