歴史を楽しむコツは「難しく考えない」こと!戦国武将にまつわる逸話7選を紹介
画像:日光東照宮「見ざる聞かざる言わざる」(栃木県日光市)
歴史といえば、年号や古典的な言葉、場所や時代背景、起きた出来事や人物名など覚える要素が多く、複雑とか堅苦しいとか、そんなイメージをもつ人も少なくないと思います。
しかし、歴史には「逸話」や「伝説」といった雑学的なエピソードもあり、ややこしかったり難しい話ばかりではなくフランクで親しみやすい側面もあったりします。
ほかにも、マンガや小説から歴史に触れ、その人物について調べたり興味をもったりするケースもありますね。つまり、ハードルの低いところから始めたほうが楽しく学べます。
そこで今回、テーマに選んだのが「戦国武将にまつわる逸話」というわけです。歴史が苦手な人は”きっかけ”づくりの一つとして、ぜひ参考にしてみてはいかがでしょうか。
秀吉が信長の家来になれた理由
画像:豊臣秀吉之像(藤原邦信画-大阪城)
愛知県中村区の農家に生まれた豊臣秀吉。のちに天下統一を果たし、尾張三英傑として語り継がれていますが、並々ならぬ努力があったことは言うまでもありません。
さて、まず秀吉は織田家に仕えますが、そもそも農民の秀吉がどのようにして信長に近づくことができたのでしょうか。そこから、秀吉の出世街道がスタートするのです。
秀吉は定職に就かずプータローでした。今川義元の部下・松下之綱の兵隊に志願して採用されても、想像と違う世界にガッカリして合戦を抜け出す有様。
転職を繰り返しましたが、ヤル気を出せるような仕事が見つからず途方に暮れます。そんなとき、秀吉の目に飛び込んできたのが織田信長でした。
怒涛の勢いで天下統一を目指す信長に憧れた秀吉は、織田家で働いて信長の家来になりたいと考えます。「どうすれば信長さんの家来になれるかな」と試行錯誤。
そのためには、まず信長に会わなければ話になりません。秀吉は、「馬借(馬を利用して荷物を運ぶ運送屋)」を営んでいた生駒家に就職しました。
必死に働いて生駒家の主人に気に入られると、住み込みで働くようになります。これこそが秀吉の狙いでした。住み込みで働けば生駒家の娘・吉乃に近づけるからです。
なぜ秀吉は吉乃に近づいたかというと、当時、信長は吉乃のことを気に入っており、頻繁に生駒家へ足を運んで軽く口説いていたそうです。
その情報をキャッチした秀吉は、吉乃を通じて信長に近づこうとしました。生駒家に住み込みで働き、笑わせたり話し相手になったりして吉乃の機嫌を取る秀吉。
しばらくして信長は「生駒家に面白い奴が働いている」というウワサを聞きつけ、清洲城へ秀吉を呼びつけました。城へ招かれた秀吉は、ここでも芸や面白い話で信長の機嫌を取ります。
そして、信長の気分が頂点に達した頃を見計らって秀吉は言いました。
「信長様、恐れ入りますがお願いがあります」
「なんだ?褒美が欲しいのか?言ってみろ」
「いえ、褒美は欲しくはありません。織田家の家来になりたいです」と。
しかし、信長の返事は「NO」でした。不採用に肩を落とし生駒家へ戻った秀吉は、吉乃に頭を下げて信長に口添えしてもらえないかと頼みました。
数日後、再び秀吉は清洲城へ呼び出されます。吉乃の頼みを聞き入れた信長は、秀吉を家来として雇うことにしたのです。こうして秀吉は織田家に仕えることとなりました。
秀吉と草履の話
画像:豊臣秀吉公銅像(豊國神社)
ちなみに、「秀吉」という名前は24歳からの名前で、この頃は「藤吉郎」と名乗っていました。これは余談ですが、秀吉は生涯で5回も名前が変わっているんですよ。
藤吉郎になった理由は、一説によると藤原氏を祖先にもつ織田家と、お世話になった生駒家の吉乃から一文字づつを拝借し、「藤」と「吉」で藤吉郎にしたそうです。
織田家に仕えたばかりの藤吉郎は雑用係からスタートし、その一つに信長の草履(ぞうり)を管理する“草履取り”という仕事がありました。
旅先に草履の予備を持ち歩いたり出先で脱いだ草履を見張っておくなど、現代ではあり得ない仕事。ある雪の夜、信長が草履を履くと温かくなっていました。
すると信長は、藤吉郎に言います。
「おい藤吉郎、俺の草履に座っていただろ?」
信長は怒って藤吉郎を杖で打ちましたが、藤吉郎は否定しました。
「私は腰掛けてなどおりません」
「嘘をつくな!お前が草履の上に座っていたから温かくなっているじゃないか」
「いえ、背中に入れて温めておきました」
「なぜ、そのようなことをした?」
「今夜は寒空なので、足が冷えては困ると思いまして」
「そんな話、信じると思うか?証拠を見せろ」
すると藤吉郎は服を脱ぎ、背中に付いた草履の跡を見せたのです。「あっぱれ、あっぱれ」と信長は感心し、すぐさま藤吉郎を雑用係の責任者へと昇格させました。
信玄と貝殻の話
画像:武田信玄公之銅像(甲府駅南口前)
これは、武田信玄が16歳の頃の話。信玄には2歳上の定恵院という姉がいましたが、定恵院は18歳で今川義元に嫁ぎ、静岡の駿府で暮らしていました。
ある日、武田家に姉から貝殻が届きます。当時、バラバラの貝殻から2枚を組み合わせてペアをつくる遊び(トランプの真剣衰弱のようなゲーム)が流行っていました。
その遊びを「貝おい」といいましたが、そのために送られてきた貝殻。ところが、送られてきた貝殻は山盛り2畳分で度を越えた量で、ペアを見つけるのも一苦労。
そこで母親は、「貝おいに使えそうな貝殻を兄弟で選別しておいてね」と信玄に頼みました。
普通なら「無茶だよ」と諦めるほどの難題ですが、山に囲まれて育った信玄は目の前に積まれた貝殻に大興奮。一枚ずつ確認し、ようやく数え終わると3700枚あったそうです。
信玄は武田の家臣たちに「あのさ、この山盛りの貝殻は全部で何枚だと思う?」と聞いて回り、ある者は1万枚、また、ある者は8000枚と答えたり、どれも当てずっぽうの回答ばかり。
すると、信玄は閃きます。「人間は思い込みで判断する傾向がある、これを戦に応用できないか」と。そしそして、信玄は的外れな答えを並べた家臣たちに言いました。
「兵力が合戦の勝敗を決めると思っていた。しかし、さほど人数は重要でないことに気づいた。いかに3000の兵を1万に見せれるか、大軍と思わせるように動かせるかが指揮官の役目。心得ておくとよい」
つまり、憶測や見た目の印象で判断しやすいという人間の心理を利用し、相手に思い込みを与えて錯覚させれば、はじめから戦況を有利に運べると考えたわけです。
2畳分の貝殻3700枚でさえ1万枚に見えるのだから、上手く兵を動かして攻め込めば2倍や3倍に思わせることもできるはず、と。
それを聞いた武田家の家臣たちは、「なんとも末恐ろしい若殿よ」と感服したと言います。また、信玄は日ごろから口うるさく言っていたことがありました。
「戦に勝つということは、五分を上とし、七分を中とし、十分を下とする」
家臣の一人が、意味を尋ねます。すると信玄は、こう答えました。
「完璧(=十分)に勝ってしまうと敵を侮り、慢心が生まれ自分の身を滅ぼしてしまう。また、七分の勝ちなら怠けが生じてしまう。だが、五分の勝ちなら今後に対して励みの気持ちが生じ、つねに油断することなく精進できる」
つまり、「俺は強いと余裕をかましていると怠けて努力しなくなるけど、引き分けなら今度こそ勝つぞって頑張れるだろ」といった意味。努力家だった信玄ならではの考え方ですね。
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