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戦国時代でスカウトしたい「井伊直政」

戦国時代でスカウトしたい「井伊直政」

戦国時代でスカウトしたい「井伊直政」
画像:井伊直政の騎馬像(JR彦根駅)

20歳前半で徳川四天王の一人と称えられ、徳川家への忠義は厚く、合戦では我先にと先陣をきって突撃し、赤い装備を身にまとった部隊「赤備え」を率いていたことから「井伊の赤鬼」という異名がついた猛将です。

生没 1554年生まれ 1613年死去
出身 遠江(静岡県)井伊谷
主君 徳川家康
親族 父:井伊直親 息子:井伊直勝・井伊直孝 娘:德興院
姉:高瀬姫 養母:井伊直虎 直政は井伊直弼の先祖
特徴 徳川四天王 赤鬼 赤備え なかなかのイケメンだった

井伊直親とおひよの子として遠江(井伊谷)で生まれましたが、直親が謀反の疑いをかけられ主君の今川氏真に処刑されると、2歳の直政(幼名は虎松)は井伊谷城の城主・井伊直虎(次郎法師)に育てられたとされています。

その後、武田信玄が今川氏の領土・駿河に侵攻した際、井伊家の家臣である小野道好が虎松を暗殺しようとしたため、虎松は浄土寺へ預けられ、しばらくして愛知県の鳳来寺に入れられました。

そして、直親の13回忌におひよや直虎など親族らが話し合って徳川家康へ仕官させることを決定し、名を井伊万千代に改め、家康の小姓(世話役)として1575年から徳川家に仕えるようになります。

知る人ぞ知るエリート武将

戦国時代でスカウトしたい「井伊直政」
画像:井伊直政の兜をかぶる彦根市のマスコット・ひこにゃん

武田氏の滅亡後、武田の領土を得た家康は武田の家臣や兵も吸収したわけですが、それに伴い武田軍の代名詞である「赤備え」を復活させ、家康は20歳そこそこの井伊直政を赤備えの大将に任命しました。

赤備え・・・甲冑や旗指物などの武具を赤や朱色で統一した部隊

直政が率いる徳川の赤備えは小牧長久手の戦いでデビューし、勇猛果敢に戦場を駆け回る姿から「井伊の赤鬼」と一目置かれる存在となったのです。

さて、小姓から若くして赤備えの責任者へ昇格した直政でしたが、関ヶ原の戦い後、石田三成の所領だった近江彦根と18万石を家康から与えられ、これは当時の徳川の家臣の中で一番の厚遇でした。

家康の家臣団は主に三河武士で構成されていましたが、東国の天下無双と称された本多忠勝や坂井忠次、榊原康政ら徳川四天王は愛知県の生まれ育ちで直政だけが県外の出身。

にも関わらず、家臣団の中でも15万石の所領でトップクラスの本多忠勝よりも直政のほうが石高が多く、超がつくほど家康の"お気に入り"だったことは間違いないようです。

一説によると、いつでも会いに行けるように家康は自分の屋敷の庭に直政の家を建てたとか(笑)。

さらに、直政は家康の養女と結婚し、直政の長女は家康の息子と結婚するという実質的な親族関係でもあり、高い評価を受けていただけでなく厚い信頼を寄せられていたことも分かります。

ちなみに、直政の次女は伊達政宗と結婚していますね。

直政は寡黙で物怖じせず、行動派でワイルド。家臣団の中でも家康に助言していた数少ない家臣の一人だったそうで、だいぶ親密だったのか遠慮しないでズバズバ意見していたといわれています。

そのせいか、家康のほうから直政に意見を求めることも珍しくなかったそうです。つまり、戦場での働きだけでなく組織の運営においても頼りにしていたわけですね。

徳川四天王の中で一番歳も若くキャリアも短い直政ですが、こんなに評価され信頼されていたのであります。

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