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織田信長の死に隠された10の謎。戦国史もっともミステリアスな「本能寺の変」の真実(後編)

前編では織田信長の最後と信長の遺体、明智光秀が残した俳句の意味について3つの謎を紹介したが、これといって核心に迫る史実は未だ存在していない。

↓前編はこちら↓

織田信長の死に隠された10の謎。戦国史もっともミステリアスな「本能寺の変」の真実(前編)
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謎多き本能寺の変。後編では、信長の死に隠された”黒幕”説に迫ってみたいと思う。戦国史もっともミステリアスな出来事となった本能寺の変だが、本当に”黒幕”がはいたのだろうか。

ここでは異なる角度から様々な説に迫ってみる。あくまで見解であって史実ではない。しかし、歴史の手掛かりを探ることは歴史の足跡を辿るための重要なミッションだ。では、435年前の戦国へタイムスリップしてみよう。

なぜ明智光秀は信長を裏切ったのか?

本能寺の変で最初の謎は”なぜ光秀は信長を裏切ったのか”ということ。考えただけでも、この闇は深い。明確な動機は不明で幾つかの説があるが、核心的な結論は出ていない。

説その1 信長に対する怨み

司馬遼太郎の小説「国盗り物語」でもこの説を採用しているが、信長は日頃から大勢の部下がいる前で光秀を強い言葉で罵ったり事あるごとに叱責したりしたと言われている。

ときには理不尽な八つ当たりやバカにするような罵倒もあって、周囲の部下たちも憐れむほどだったとか。暴力に至ることもあったようで、こんな有名な逸話もある。

光秀は宴会の席で朝倉義景の頭蓋骨で作られた盃を信長から渡され、その盃で酒を飲むように強要された。光秀は義景に仕えていた過去があるため、この強要を拒否した。

その態度に信長は激怒し、光秀の額から血が出るほど何度も何度も叩いた、とのこと。ほかにも、比叡山の延暦寺を信長が焼き討ちする際、この決定に反対して抗議したときもシバかれている。

また、徳川家康の接待役から理由もなく解任されたことや日頃の扱いなど、信長への恨みが積み重なっていたとも言われている。そして、信長を怨んでいたとされる大きな理由は領地替えの件。

光秀の領地は近江坂本と丹波が中心だったが、とくに丹波は光秀が何年もかけて攻略した領地だ。光秀が信長の命令を受けて中国に出征したとき、この二国を没収され、出雲と石見を領地として交換させられた。

だが、この二国は毛利氏の領土であり、織田家の領土ではなかった。つまり、まだ手に入れてもいない敵の領土を与えられたというわけだ。

一時的に光秀は領地をもっていない状態となり、理不尽な命令であったことは言うまでもない。積もり積もった怨念が本能寺の変を引き起こしたという動機である。

説その2 信長の朝鮮進出を阻止するため

光秀の末裔・明智憲三郎氏は自身の著書「本能寺の変 431年目の真実」の中で、信長は天下統一したあと、朝鮮への侵略を考えており、国外で戦をすれば兵や家臣など多くの犠牲が出ることを光秀は懸念していた、と書いている。

さらに、「イエズス会日本年報」にも信長が中国を征服するという野望を持っていたとの記録がある。当然、信長は光秀に中国への侵攻を命令するだろう。

軍を率いて朝鮮へ出向けば、明智一族が滅亡するかもしれない。憲三郎氏は著書の中で、「光秀は中国行きに従うか、背いて信長を殺すのか、どちらかを選ばなければならない状況だった」と書いている。

信長の朝鮮侵略を阻止すべく、本能寺の変を起こした、とのこと。あくまでも憲三郎氏の見解であるが、もしそうだとしたら正義感が強く生真面目だった光秀らしい動機かもしれない。

※ イエズス会日本年報・・・日本に来日したキリスト・カトリック教徒によって作成された毎年の報告書。当時の日本の政治情勢や教会の状況などが記録されている。

説その3 室町幕府を再興させるため

近年、光秀の直筆の手紙が発見され、新たな説が浮上した。手紙には足利義昭を京都に迎え入れることについて書かれており、光秀は室町幕府の再興を願っていたのではないかというもの。

光秀は過去に朝倉義景や足利義昭に仕えていた、という経歴があると言われている。朝倉家は足利家と深いつながりがあり、光秀も将軍家に特別な親しい感情を抱いていたとしてもおかしくない。

信長に仕える前から足利義昭の連絡役として各国を行き来していたことは明らかにされており、光秀の盟友・細川藤孝が将軍家に仕えていたという裏付けもあって、信長の家来になってからも足利義昭と深いつながりをもっていたのではないかという見解。

室町幕府を再び盛り上げるためには信長が天下統一を果たす前に消さなければ・・・、その動機が本能寺の変の”引き金”になったのではないだろうか。

また、幾つかの文献によると、光秀は天皇家に仕えていた土岐氏(土岐一族)であったとも考えられており、信長に気づかれぬよう将軍家の復活=室町幕府の再興に尽力していたのかもしれない。

何はともあれ、これらに明確な根拠はないが、光秀の直筆の手紙が見つかったのは歴史的な出来事である。光秀の生涯は謎が多かったし、直筆の原本は貴重な資料となる。

この手紙は本能寺の変から10日後に信長と敵対する土橋重治へ宛てて出されていることから、以前から反信長勢力とつながりをもっていて室町幕府の復活を願う者たちと親交を深めていたという推測もできる。


画像:6月12日付 土橋重治宛て光秀書状(美濃加茂市ミュージアム)

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