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なぜ豊臣秀吉は怒ったのか?天下の茶人「千利休(せんのりきゅう)」が切腹した理由(前編)

1591年2月13日は、千利休(せんのりきゅう)が謹慎処分を受けた日。

秀吉を怒らせたことが原因で、利休は謹慎を命じられている。「聚楽屋敷を出て、故郷の大阪に戻って反省していなさい。一歩も外に出ないように!」と。

聚楽屋敷は聚楽第(秀吉の邸宅)に隣接する屋敷。現在の京都市上京区に跡地がある。

聚楽屋敷には利休のために茶室が設けられ、茶会なども開かれていた。つまり、利休は豊臣家に仕える茶人として秀吉から特別な存在として扱われていたわけだ。

それなのに利休は謹慎処分を受け、3日後には秀吉から切腹を命じられ、その13日後に自害している。この背景には「利休が秀吉を怒らせ、そのことに対して謝罪しなかった」というのが一般的な説である。

なぜ利休は、切腹に追いやられるまで秀吉を怒らせたのだろうか。

天下の茶人、千利休

2月13日、秀吉の遣いで富田知信と柘植左京亮が聚楽屋敷を訪れ、聚楽第に来るよう利休に告げた。その日の夜に利休は屋敷を出て、秀吉のもとへと向かう。

秀吉は利休の顔を見るなり、「京都から出ていけ!聚楽屋敷から出ていけ!」と怒りをぶつける。この言葉に利休は何も言い返さず聚楽第を出て屋敷に戻り、荷物をまとめて京都を離れる準備をした。

利休が京都を離れる際、見送りに来たのは古田織部と細川三斎の二人だけ。利休には、ほかにも多くの門弟(弟子)がいたが、秀吉から文句を言われるのを恐れて誰も来なかった。

秀吉は追放を命じたわけだが、翌日には考え直した利休が謝罪に来ると思って待っていた。だが、利休は秀吉に頭を下げることなく、そのまま大阪へ帰ってしまったのである。

「チャンスを与えたのに詫びは入れないし、会いにも来なかった・・・」と腹を立てる秀吉。この態度に怒りがおさまらない秀吉は、2月16日(17日という記録もある)に利休へ切腹を命じる。

1591年2月13日、秀吉は利休に謹慎を命じた。つまり、突如として切腹を命じたわけではなかったのである。謹慎の命令を受けた利休は京都の聚楽屋敷を出て、大阪の屋敷に入った。

このとき秀吉は、利休が謝罪にくるのを待っていたともいわれる。この時点で利休が自ら謝罪していれば一命は助けられたのだろう。しかし、すでに切腹を覚悟していたらしい。
参考:歴史研究家 小和田泰経氏(「歴史人」12月号より引用)

まだ怒りがおさまらない秀吉は、大徳寺の正門に建てられている利休の木造を引きずり下ろし、それを京都の一条戻橋に縄で縛って磔(はりつけ)にし、「俺を怒らせると こうなるぞー!」とストレスを発散した。


画像:豊臣秀吉画像(藤原邦信画)

当時、利休から茶道を教わっていた大名も多く、その一人に前田利家がいる。利休が切腹することを知った利家は利休に宛てて手紙を書いており、秀吉に気づかれぬように内密に送っている。

利休さん、このままだと本当に死ぬことになる。正室(秀吉の妻)の寧々(ねね)、または大政所(秀吉の母)に頼んで謝罪の場を設けてもらい、ちゃんと頭を下げれば秀吉は許してくれる。

寧々や大政所は、利休のことを格式ある文化人として認めていた。二人の後押しをもらって秀吉に謝罪すれば切腹しなくていいかもしれない、だから秀吉に謝罪してほしい、と。

しかし、利休は、利家の助言を強く断った。

私は天下の茶人として世間に広く知られている者だ。そんな私が女に命を救われたとなれば後世の笑い者になるだろう。そして何よりも、私は悪くない。秀吉に頭を下げれば茶道を侮辱することにもなる。

怒りが静まらない秀吉は2月26日に利休を京都に呼び戻し、聚楽屋敷に監禁した。利休が逃げないようにするための処置であったが、利休の弟子が利休を逃がさないようにするための方法でもあった。

事実、織部や三斎ら弟子たちが利休を救うために動くが、秀吉に利休の監視を命じられた上杉家の岩井信能ら3000人の侍が屋敷の周りを囲んでおり、利休を助け出すことは不可能だった。

そして、ついに”そのとき”は来る。2月28日の早朝に秀吉の遣いが屋敷を訪れ、利休に「切腹を実行してください」と伝える。この日は夜中から雷が鳴り、大雨が降り、天候が荒れていた。

利休は秀吉の遣いに「茶室にて茶の用意が出来ています」と静かに言い、茶をたて差し出したあと、一度だけ深く呼吸を吐いて切腹した。介錯は利休に茶を学んでいた蒔田淡路守が務めている。

※介錯・・・切腹した人の首を斬ること

享年70。聚楽屋敷にて利休、自害。秀吉の遣いは利休の首を持ち帰り、後日、一条戻橋で磔(はりつけ)にしている木造の前に置かれ、利休の首は見世物にされた。

利休の死後、しばらくして秀吉は利休に切腹を命じたことを後悔して悔やんでいたという。木像を磔にしたり首を見世物にしたり、「どうして俺は、あんな無残なことをしたのだろう・・・」と。

利休と同じ作法で食事したり利休が好む形式の茶室を建てたり、人知れず利休との想い出に浸っていたとのこと。利休が自害してから7年後、秀吉は病気を患って他界した。

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