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天下の大泥棒、石川五右衛門。歴史上には解明されていない数多くの謎があるが、五右衛門もその一人ではないだろうか。秀吉の怒りを買い、京都の三条河原で処刑された盗賊のリーダーである。
とはいえ実際のところ、五右衛門に関する記録は限られており、ほとんどが”説”の域を出ない不確かな話が多い。いわば、戦国時代に”いたかもしれない”伝説のような存在と言える。
戦国時代といえば武将たちが真っ先に思い浮かぶが、五右衛門のようなミステリアスな人物に目を向けてみるのも面白い。今回は、石川五右衛門にまつわるエピソードを紹介したいと思う。
五右衛門は実在したのか?
いつ生まれ、どこから来て、どのような経緯で盗賊になったのか、未だ不明の五右衛門。
安土桃山時代(俗に言う戦国時代)にいた盗賊のリーダーで、1594年10月8日に処刑されたという記録はあり、なおかつ京都の大雲院に墓がある。
のちに見つかったイエズス会の宣教師が書いた日記の中に五右衛門に関する記述があったことから実在していたと言われているが、ほかにもベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンが書いた日本王国記という文献の中にも五右衛門について記述がある。
ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンはスペインの貿易商人で、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて20年ほど日本に滞在していた。イエズス会の日記と日本王国記の記述を訳すと、次のような内容になる。
これまで京都の町を荒らしまわっていた盗賊15人が捕まり、盗賊の頭や仲間を含め三条河原で生きたまま煮えたぎった油の中に沈められ釜で煎られた。1594年、夏の出来事である。
盗賊のほかに、その家族9人あるいは10人が同じ方法で処刑され、さらに関係者と思われる10人~20人の者が磔(はりつけ)になった。盗賊の処刑とはいえ、あまりにも残酷な光景であった。
参考:日本王国記(ハポン)
また、公家の山科言経の記録「言経卿記」には、1594年10月8日に起きた出来事として、
盗人、スリ10人、子供一人も釜にて煎られ処刑。同類20人は磔の刑。三条橋の河原にて成敗。
と記述している。二つの共通点は「誰が処刑されたのか名前が記されていない」ことと「処刑に関する記述しかない」ということである。しかし、1642年に書き記された「豊臣秀吉譜」の中には五右衛門の名が出ている。
文禄の頃に石川五右衛門と名乗る盗賊が強盗、追剥、悪逆非道を働いたので秀吉の命令を受けた前田玄以が捕え、その母親と同類20人を釜煎りにした。
参考:豊臣秀吉譜(林羅山編)
※公家・・・天皇家に仕える貴族や上級武家。
※イエズス会の宣教師・・・キリスト教やカトリック教を広めるために海外から来た教徒。
この記録を引用して言えば、戦国時代に五右衛門は実在したということになる。
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