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ミステリアスで謎だらけ!天下の大泥棒「石川五右衛門」は実在したのか?

現代まで語り継がれている五右衛門の伝説

五右衛門が後世に語り継がれるほど有名になったのは、江戸時代に歌舞伎や絵画のモデルとして多く扱われたからだ。現代でも市川海老蔵など歌舞伎役者が演じ、映画や舞台の題材となっている。


画像:石川五右衛門(©松竹創業120周年 初春花形歌舞伎)

生い立ちや生涯が不明の五右衛門だが、諸説によると様々な伝説が残っている。生まれは伊賀(三重)または遠江(浜松)あるいは河内(大阪)または丹後(京都)、さらには阿波(徳島)という説もある。

●伊賀説・・・伊賀流の忍者として百地三太夫に育てられた
●遠江説・・・医者の石川郡山内古底に育てられた。幼名は真田八郎
●丹後説・・・石川左衛門尉秀門に伊久知城で育てられた
●阿波説・・・三好氏の家臣・石川明石の子として生まれた

とくに阿波説と丹後説は史実とつながる点もあり、興味深い。

丹後の石川左衛門尉秀門は守護大名一色義定に仕えており、豊臣秀吉の命を受けた細川藤孝の手によって謀殺され、伊久知城も壊滅した。

このとき、秀門の次男であった五良右衛門が生き延び、石川五右衛門になった。という説。それ以来、秀吉は”親の仇”となり、敵対視していたのではないかと。

また、阿波説では、五右衛門は長身で体格がよく怪力で、16歳のときに三好氏の金庫から黄金の刀を奪い、その際に番人3人を殺害して、逃走。以降、各地を転々と放浪し、盗みを働いた。という説。

個人的に好きな説は、伊賀説である。江口洋介が演じた映画「GOEMON」の題材にもなったが、幼名を五郎吉と名乗り、14歳で父母を亡くす。伊賀の忍者に育てられたが、盗賊になった。という説。

もはや説だらけで、わけがわからない。映画「GOEMON」では幼い頃に織田信長に拾われ、織田家に仕えていた服部半蔵から忍術と武術を教わり、幼い頃から共に忍術を学んだ霧隠才蔵が唯一の友。

信長を親のように慕い、尽くす。しかし、信長が本能寺で討たれると忍者を辞め、大泥棒となった。そして時は過ぎ、秀吉の時代がやって来る。

いつものように裕福な家に忍び込み小判を盗むのだが、五右衛門は目の前にあった”パンドラの箱”を手に取り小判と一緒に盗んだ。この箱には信長暗殺に関する証拠が隠されており、五右衛門は石田三成に追われることとなる。

そして、友と再会するのだった。このとき才蔵は三成に仕えており、五右衛門を追う命を受ける。同時に徳川家康もパンドラの箱を追っており、家康には服部半蔵が仕えていた。

そして、ついに五右衛門はパンドラの箱を手掛かりに謎を解いてしまう。秀吉が明智と結託して信長を殺したという証拠が隠されていたのだ。この事実を知った五右衛門は秀吉の暗殺を計画する・・・。

この先は、ぜひ本作を観てほしい。釜茹でのシーンから関ケ原の合戦までストーリーは続いており、思いもしない結末を迎える。

様々な伝説が飛び交う五右衛門。戦国史に残るミステリーの一つとして、実に興味深い人物である。

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