画像:西郷隆盛(エドアルド・キヨッソーネ作-近世名士写真其之1-国立図書館)
1877年2月15日、西郷隆盛が率いる1万3000の薩摩軍は、大久保利通・山県有朋が指揮をとる政府軍と戦うために薩摩(鹿児島)を出発した。
大久保と西郷は明治維新に尽力した盟友で、二人の分裂がクローズアップされる西南戦争は明治時代を代表する歴史的な出来事として知られている。
1877年1月30日に起きた薩摩の私学生たちが政府軍の火薬庫を襲撃した事件が発端となり、明治政府の方針に不満をつのらせる元武士たちと共に西郷は戦い、敗戦。鹿児島の城山で自害した。
西南戦争は熊本、宮崎、大分、鹿児島で行われた戦争の総称であり、政府軍の視点で見た場合と西郷の視点から見た場合とでは感情の入れ方が違ってくる。
そこで今回は、「熊本城の包囲戦」「田原坂の戦い」「城山の最終決戦」の3部にわけて西南戦争をクローズアップしてみたいと思う。大河ドラマでの参考に、ぜひチェックしてみてはいかがだろうか。
明治10年 薩摩軍、決起する
画像:城山から展望した桜島
政府軍の火薬庫を爆破したのは西郷が設立した私学校の生徒たち。このときの西郷は明治政府をクビになっており、1874年6月、鹿児島に銃隊学校と砲隊学校を設立している。
西郷が信頼を寄せる篠原国幹と村田新八が中心となり、私学校は136の分校まで拡大し、経費は旧藩から県庁に引継がれた積立金が運営費に充てられていた。
私学校の設立は鹿児島県令(知事のような立場)の大山綱良が支持のもと、西郷隆盛が指揮をとり士族(武士だった者)を基盤として成立された訓練校である。西南戦では、この私学生たちが主力の兵士となった。
火薬庫爆破の直後、西郷は政府に呼び出され1877年2月5日に出席した会議で事件の重大さを言及されると、鹿児島に戻った西郷は自らが総大将となって政府と対立する決意を表明。
画像:西南戦争にて西郷隆盛と将兵の挿絵(ル・モンド・イリュストレ1877年号)
2月6日には私学校の名を「薩摩軍本営」へと変え、具体的な作戦会議に取り掛かる。ここで、海を渡り東京に上陸する作戦や、本隊と別働隊に別れる作戦などが話し合われたという。
西郷は、「奇襲作戦は恥。正々堂々と真正面から陸路で進軍し、大義を天下に知らしめよう」と、正面突破の意思を示し、私学性や元武士など薩摩軍の兵士たちの士気を高めた。
薩摩軍が発した「打倒!明治政府」の呼びかけに集まったのは、およそ1万3000人。腕に覚えのある男たちが集結し、精鋭部隊を作り上げた。しかし、この不穏な動き政府にも伝る。
川村純義と林友幸が政府に命じられ西郷に現状を問うべく2月9日に鹿児島へ向かうが、私学校たちの妨害により西郷に会うことすらできないでいた。
私学生に阻まれ身動きが取れない二人は広島の尾道で待機していたが、「もう我慢の限界です」そう政府と熊本の県令(知事のような立場の人)に状況を報告する。
この電報を受けた政府軍の総司令官・山県有朋は、直ちに各地の陸軍に出動を命令した。山県は熊本陸軍の指揮官(少佐)・谷干城に「熊本の陸軍総本部を絶対に死守せよ」との激励を送っている。
画像:山県有朋之写(近世名士写真其之1-国立図書館)
2月15日、50年ぶりの大雪が鹿児島に降っていた。にわかに積もった雪を踏みながら熊本へ向けて歩く。まずは、先方を任された別府晋介が率いる薩摩軍の先発隊が鹿児島を出発し、熊本へと向かう。
一方の政府軍は、このとき熊本に在中する3400人の兵で陸軍総本部を守る。政府が派遣する援軍が熊本に到着するまで「絶対死守」することが谷少佐に与えられた任務であった。
陸軍の総本部は、築城の名手、加藤清正(戦国武将)が築いた難攻不落の熊本城。いろんなトラップや仕掛け張り巡らされた日本屈指の名城であり、そう簡単には落とせない。
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