信長公記・1巻その3 「足利義昭の感状」
画像:能を知る会(公益財団法人鎌倉能舞台 )
足利義昭の感状
細川邸が義昭の座所(住まい)となったあと、義昭は屋敷に観世大夫(能楽師)を招いて能の見物を催して、上洛に貢献した面々を招待した。(※現代で能といえば、狂言師の野村萬斎などが著名である)
しかし、信長は、「今は隣国の平定を急ぐとき。これで安泰とは思っていない」と言い、13番まである演目を5番に省略させてしまった。
ちなみに、義昭は再三にわたり信長のもとへ使者を出し、「副将軍にならないか」「管領に就任しないか」と幕臣になることを要請していたが、信長は辞退して申し出を受けようとはしなかった。
以下、能で行われた演目である。
脇能・高砂、2番・八嶋、3番・定家、4番・道成寺、5番・呉羽
脇能が終わったあと、義昭から呼ばれた信長は義昭の近くへ参上した。信長に義昭は酒を注いで、さらに鷹と鎧を贈った。将軍が自ら酒を注ぎ、品を手渡すなど、これに勝る名誉はなかった。
また、気分を良くした義昭は4番の演目で信長の鼓を聞きたいと言ったが、信長は断った。演目は終了し、能を披露した一座に信長から盛大な土産の品が贈られた。
観の見物会から間もなくして信長が支配していた所領の諸関税の廃止を実行した。これは旅人が往復する際の便利を考えた政策であり、人々は大いに喜んだ。
岐阜城に帰還
11月13日、信長は義昭へ帰国の挨拶を告げ、義昭から翌日に感状(功績を称える感謝状)が贈られた。感状に記された文面は次のとおりだった。
今度国々凶徒等、不歴日不移時、悉令退治之条、 今度依大忠、紋桐・引両筋遣候、可受武功之力祝儀也。 十月二十四日 御父織田弾正忠殿 |
この感状では信長のことを「叔父」と呼んでおり(敬意を表して)、畿内平定の功績を称える証として足利紋を使用することを許可している。
このような対応は前代未聞の栄誉であり、信長の威厳を世間に知らしめる出来事となった。信長は江州守山から柏原(滋賀県)を経て11月15日に岐阜城へ帰還した。
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