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武田神社と上杉神社を訪ね「武田信玄」と「上杉謙信」の面影を知る

武田神社と上杉神社を訪ね「信玄」と「謙信」の面影を知る


画像:武田信玄・上杉謙信一騎討之像(八幡原史跡公園)

永遠のライバルとして戦国時代に名を残した武田信玄と上杉謙信。二人は5度にわたり川中島で合戦を繰り広げましたが、信玄は三方ヶ原の戦いが終わった直後に持病が悪化し、しばらくして病死しました。

全国の大名や武将たちは「恐ろしい男がいなくなった」と喜びましたが、謙信は「尊敬に値する男を失った」と、ライバルの死を悲しんで涙を流したそうです。その5年後、あとを追うように謙信も病死します。

腕っぷしが強く、戦場で次々と敵を蹴散らす姿から“越後の龍”と恐れられた謙信に対し、巧みな戦術と騎馬隊や赤備えなど精鋭部隊を率いて向かうところ敵なしの信玄は“甲斐の虎”と恐れられました。

今回は、そんな二人に由縁のある神社をご紹介したいと思います。観光や史跡巡りなどで山梨や山形を訪れた際には、ぜひ立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

  山梨と武田信玄


画像:武田信玄・上杉謙信一騎討之像(八幡原史跡公園)

信玄に由縁のある場所といえば「武田神社」です。18代~20代目の武田家当主が暮らしていた「躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)」の跡地に建てられた神社で、「勝運」のご利益でも有名な神社です。

信玄の父「信虎」が18代目、信玄の息子「勝頼」が20代目、そして19代目の当主が信玄になります。武田家は源氏の血を受け継ぐ一族で、甲斐国(山梨県)の守護を任せられていました。

※守護・・・幕府が築いた武家の役職。地域ごとの守護を決めて政治や軍事の指揮をとらせた

武田一族のなかでも武田家の名を天下に轟かせた武将が信玄でした。戦場では”虎”と恐れられ、向かうところ敵なし。生涯の合戦で負けたのは、わずか2回だけです。

そんな名将でも手こずった相手が上杉謙信。5度にわたり川中島で激戦を繰り広げましたが、最後まで勝敗がついていません。謙信が「力」なら、信玄は「術」の武将。

伝説的な軍事として有名な「山本勘助(菅助)」や真田幸村の父「昌幸」が仕えており、信玄の戦術や合戦の勝ち方を教わったと言われています。

“虎”というネーミングから信玄はオラオラな性格かと思いきや、実は、とても慎重で優れた知性をもった戦略家タイプです。そのため、日頃から情報収集を徹底していました。

「三ツ者」という男女混合の忍者集団をつくって諜報活動をさせ、大名や武家の動向など各地の情報を仕入れ、合戦前には敵方の戦歴や戦い方の傾向からプランを組み立てたと言われています。

生涯において永遠のライバルとなった謙信は真っ向勝負を挑むオラオラ系でしたが、信玄は猪突猛進とは無縁の男。研究や分析といった用意周到な知恵の武将でした。

信玄の“強さ”は合戦だけにあらず、地元の活性に大きく貢献したことでも名が知れています。たとえば、「治水工事」や「軍用道路」など優れた土木技術で山梨に数々の偉業を残しています。

  信玄の遺徳


画像:川岸に築かれた信玄堤(山梨県甲斐市役所)

遺徳とは、故人や偉人が残した遺物や遺産など功績に感謝し、敬意を表する言葉ですが、今でも山梨には信玄の遺徳が数多く現存しています。なかでも、「治水工事」は多大な功績です。

治水工事は地域住民が長年にわたり悩まされていた水害を解決し、農業の発展に大きく貢献しました。信玄の土木技術は当時では考えられないほど精度が高く、工夫されていたそうです。

甲府を流れる釜無川と御勅使川の合流点は洪水の名所で、普段は穏やかな流れですが水量が増すと御勅使川が釜無川に真横から合流し、川が氾濫し、両岸に水が溢れて水害を引き起こしていました。

信玄は武田家を継ぐと、まず防水の工事に着手します。川上には竜王高岩と呼ばれる岩盤の崖があり、合流する二つの川を竜王高岩にぶつけることで水の勢いを弱めました。

高岩にぶつけるためには、意図的に御勅使川の流路を変えて釜無川との合流地点を川上へ移す必要があり、その計画を実行するにあたり、信玄は膨大な期間と人員を投じています。

釜無川より流れの速い御勅使川の水中に大きな石を積み、水流の勢いを弱め、次に、御勅使川に堤(堤防)を置いて川の流れを二つに分けました。つまり、御勅使川を小さな二つの川にしたのです。

16個の大きな石を釜無川と御勅使川の合流地点に並べて川の流れを一定の方向へコントロールし、水流が弱くなった御勅使川と釜無川が互いに流れを打ち消し合うように工夫しました。

これにより合流地点が川上に移ったことで水流が早くなっても高岩にぶつかって川は氾濫せず、さらに、川の流れがコントロールされているので水量が増すことなく自然と川下に流れていく仕組みです。

信玄の治水工事は無理して川の流れを塞き止めるのではなく、流れに逆らわず水中の石積みで水流をコントロールしながら水の勢いを弱めて川の氾濫を防いだこと。

また、石積み以外にも「聖牛工(ひじりうしこう)」と呼ばれる技術を用い、そうした一連の堤防を総称して「信玄堤」と呼ばれています。驚くことに、400年以上が経った今でも機能しているんですよ。


画像:信玄堤「聖牛」(山梨県甲斐市役所)

※聖牛・・・水量の調整と堤防が壊れるのを防ぐための土木技術

この治水施設を維持するために信玄は村人に管理を命じましたが、その代わりに税を免除しています。また一宮の浅間神社から信玄堤のある三社神社まで神輿を担いで歩く水防祭りを定例行事にしました。

堤防の上を神輿を担いだ行列が通ると地盤が踏み固まり、より堤防が堅固になるからです。洪水への関心を薄れさせないためとも言われており、治水工事は様々なところに信玄の知恵が行き届いています。

治水工事には20年の歳月を費やし、幾度の洪水や氾濫に阻まれながら完成しました。信玄が用いた治水の技法は「甲州流防河法」として近年の土木業の基盤となっているそうです。

<信玄堤へのアクセス>
JR中央線が通る竜王駅の近く「信玄橋」から「双田橋」にかけて構築されています

  武田神社を訪ねて


画像:甲陽武能殿(武田神社)

1582年、20代目当主の勝頼が自害したことにより武田家が滅亡すると、躑躅ヶ崎館も1600年には取り壊されています。これに納得いかなかったのが地元の住民でした。

明治初期に地元住民は信玄祭祀(信玄を祀る)神社の建設を訴える運動を起こし、一度は却下されるも明治32年に運動が再開し、その必要性が認められると大正8年に武田神社が創建されました。

場所は住民の懇願もあって武田家に由縁の深い躑躅ヶ崎館の跡地。毎年4月12日(信玄の命日)には例祭が盛大に行われ、神輿と騎馬隊が歩く光景は春の風物詩となっています。

4月12日の午前9時より武田神社の例祭が執り行われ、4Km離れた甲府市太田町に在る遊亀公園のお旅所まで神輿と武田24将の騎馬武者が披露されます。
また、毎年4月12日の土曜日夕刻には甲府駅南口広場を中心に甲州軍団の出陣が行われ、約1600名の軍勢が市中を練り歩きます。

参考:大例祭(武田神社)

信玄は甲斐の守護ということもあり、武田神社は「勝運」のご利益でも有名な神社。また、勝負ごとに限らず、「人生に勝つ」「自分に勝つ」という意味合いもあるようです。

<武田神社へのアクセス>
山梨県甲府市古府中町2611(武田神社)
上記の(武田神社)にwww.takedajinja.or.jp/3_seasons.htmlを埋め込み

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