信長公記・首巻その7 「織田信行(織田信勝)の謀殺」
画像:©2014フジテレビ「信長協奏曲」の織田信行
織田信行(信勝)の死と柴田勝家の密告
桶狭間の合戦後、松平元信(のちの徳川家康)は今川家の滅亡により人質から解放され岡崎城(愛知県岡崎市)に戻っていた。信長の次の狙いは三河国(愛知県の東部)であり、その攻略のために梅ケ坪城(愛知県豊田市)を攻めた。
梅ケ坪城の合戦は序盤は激しい弓戦となり、のちに城の中から兵が突撃してきて白兵戦(刀や槍で戦う)となった。織田家の家臣・前野長兵衛が討死にした。
織田家の配下であった平井久右衛門は見事な弓働きで信長から褒美を与えられた。信長は伊保城と八草城(いずれも豊田市)も攻め、田畑を薙ぎ倒して落城させた。
話は変わるが、桶狭間の合戦前、信長の弟・信行(信勝)が竜泉寺に(名古屋市守山区)城を築き、上郡岩倉(愛知県岩倉市)の織田信康(信長の父・信秀の弟)と手を組み、信長の所領である篠木の三郷(愛知県春日井市)の奪取を企んでいた。
信行(信勝)には津々木蔵人という家来がいたが、信行(信勝)に可愛がられていたので家中の侍の面倒は津々木に任せていた。勘違いした津々木は信行(信勝)の家臣・柴田勝家に無礼な態度をとるようになる。
勝家は憤りを感じて信長に従う道を選び、それらの事情を反したうえで信行(信勝)が謀反を企てていることを知らせた。
信長は病気を患ったふりをして、外出しなくなった。勝家は信行(信勝)に「お兄さんの見舞いに行きましょう」と進言され、1557年11月22日(弘治3年)、清洲城へ見舞いに赴いた。
そして、清洲城の北矢倉(北櫓)の天主・次の間で殺害される。のちに勝家は働きが認められ、越前国(福井県)を与えられるまでに出世するのであった。
足利義輝に謁見する
1559年(永禄2年)、突然に信長は上洛を思い立って織田家の家来80名を従えて京都へ上った(行った)。京都の町を見物し、室町幕府第13代・征夷大将軍の足利義輝に拝謁した。
ついでに、大和(奈良)や堺(大阪)へも足を伸ばして見物した。
さて、信長の家臣・那古野弥五郎の部下に丹羽兵蔵という気配りに長けた者がいた。兵蔵は上洛する信長の後を追っていたが、途中で船に乗ると近江(滋賀県長浜市)の志那氏の配下と名乗る一行と偶然に同船した。
何やら怪しいと感じた兵蔵は一芝居うった。
その一行は「貴殿の生まれはどこだ?」と兵蔵に尋ね、「生まれは三河国だ(本当は尾張)。来る途中に尾張国を通って参った」と答えると、その一行は視線を落として沈黙した。
「尾張はトラブルの最中で災難だった」と兵蔵が言うと、一行の一人が「信長は大うつけだな」と言い捨てた。
よく見ると、その一行は人目を避けて忍んでいるように思え、兵蔵は一行に対する不審感が増した。その一行は兵蔵の生まれが三河と聞いて気を許したのだろう。
兵蔵は一行を尾行し、探った。すると、「美濃(岐阜)から信長の討伐に関する特命を受けて京都に来た」ということが判明したのだ。さらに、追跡すると、「将軍の許しを得て信長が宿泊している宿を襲う」ということまで分かった。
美濃の一行は二条の蛸薬師(京都市中京区室町通二条下る蛸薬師町)近くで宿に泊まっていた。兵蔵は宿の門柱に目印をつけ、急いで信長が泊まる宿に向かった。
宿に着くと信長の護衛に「殿の暗殺を企む美濃から京都に来ている」と伝え、朝になると兵蔵は信長の家臣・金森長近を美濃の一行が泊まっている宿に案内した。
長近は美濃の一行に、「貴殿たちが京都にいることは信長も知っている。せっかくだから挨拶しに来るとよい」と申し述べた。突然の出来事に一行は驚き、言われたとおり翌日に小川表(京都市上京区の小川通り)の管領屋敷に参上した。
信長は一向に大声で「お前らは俺を殺すために京都に来たらしいな。身の程知らずめ、ここで試してみるか?」と一喝すると、一行は困り果てた様子で黙り込んでいた。
数日後、信長は京都を出て、近江から八風峠(三重県四日市市)を越えて清州に帰った。
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