豊臣家を滅ぼす気はなかった!徳川家康の行動から紐解く「大坂の陣」(前編)
画像:戦前の大阪城天守閣(大阪府立図書館)
大坂の陣は「徳川家康が豊臣家を潰そうとして意図的に仕組んだ合戦」というイメージが定着していますが、その通説は既存する史料や文献に基づく100%の解釈とは言えません。
なぜなら、史実を辿っていくと家康は、「そもそも豊臣家を滅ぼそうとは考えていなかった」可能性が高いからです。
大河ドラマや小説などで描かれる"調略的"な家康の人物像によって、そのような通説が一般化したのではないかと思われます。司馬遼太郎の「竜馬がゆく」で坂本龍馬の人物像が誕生したように。
そこで今回は、文献や史料を参考にしながら通説とは違った角度で「大坂の陣が起きた発端」を紐解いてみました。
関ケ原の合戦後と合戦前の家康
画像:徳川家康の肖像(国立国会図書館)
通説では西軍が関ヶ原の戦いで敗れたあと、豊臣秀頼は所領の大半を家康に没収され大阪(摂津・河内・和泉)の3カ国だけが残り、弱体化した豊臣家に家康が(二条城の会見や鐘銘事件で)追い打ちをかけ、策略的に討伐という形式で豊臣勢に攻め入った(大坂の陣)とされています。
つまり、この流れを見る限り、関ヶ原の合戦後から豊臣家の滅亡まで家康の"シナリオ"だったという解釈になります。しかし、史実を追ってみると、初めから豊臣家を潰そうと考えていたとは思えない家康の行動が浮き上がってくるのです。
まず、関ヶ原合戦終の豊臣家は権力を失ったとされていますが、実際のところ、それは"誤解"です。
1603年、征夷大将軍になった家康は江戸幕府を開きますが、すぐに全国を統治できたわけではなく、江戸時代に入っても関西を中心とする西側は実質的に豊臣家が仕切っているようなものでした。
つまり、国のトップが二人いるような状態で、東は家康、西は豊臣といった感じで統治が分割していたわけで、徳川将軍と豊臣家という二つの政権が存在していたと考えられます。
江戸時代に入り、この状況が大坂冬の陣まで11年間も続くのですが、もし仮に家康が初めから豊臣家を潰そうと考えていたのなら、そんなに長い期間、黙って様子を見ていたとは考え難いのです。
放置しておけば豊臣家の勢力が拡大するかもしれないというリスクがあり、家康にとってデメリットが大きいからです。それでも、このような状況が長らく続いたのは、おそらく家康は"共存"の道も選択肢にあったのではないでしょうか。
過去に秀吉が豊臣政権という組織での中で有力大名たちと共存したように、家康も豊臣家とのつながりを有効的に生かす道を模索していたのかもしれません。
その証拠に、家康は関ヶ原の合戦が勃発する2年前、秀忠(家康の息子であり後の2代目徳川将軍)の娘・千姫を秀頼のもとへ嫁がせており、これは秀吉が死ぬ前に家康に託した遺言でした。
当時の様子は日本耶蘇会年報※にも記録されており、家康は秀吉の遺言を尊重して豊臣家を丁重に扱っていたと記されています。
ただ秀吉との約束を守っただけとは考えられず、当時の結婚といえば強いつながりをもつための手段でしたし、家康は豊臣家と親交を深めて徳川幕府を強固にしようとしたとも考えられるのです。
二つの政権体制と秀頼の結婚、これらにネガティブな要素はなく、むしろ家康の前向きな意思が伝わってきます。
※日本耶蘇会年報・・・在日のイエズス会・宣教師が日本の情勢や様子を書き留めていた記録書
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