黒田官兵衛や竹中半兵衛は「軍師」ではいない?!戦国時代の「軍配者」とは?
画像:如水居士像(崇福寺)
皆さんが「軍師」と聞いてイメージするのは、「戦略や戦術に秀で、頭が賢く先見性があり、主君の"知恵袋"として策の限りを尽くす」そんな姿を思い浮かべるのではないでしょうか。
事実、辞書を見ても、軍師とは「大将のもとで作戦・計略を考えて行う人。軍の参謀、または 策略の巧みな人。計略、手段などをめぐらす人」と記されており、まさにイメージ通りです。
たとえば、戦国時代の軍師なら、織田・豊臣に仕えた竹中半兵衛や黒田官兵衛、武田の家臣・山本勘助や上杉家の宇佐美定満、伊達家の片倉景綱、島津家の川田義朗や大友氏の角隈石宗などの名が挙がるでしょう。
しかし、戦国時代に「軍師」は存在していませんでした。正確には、「軍師」という言葉がなかったんです。また、戦略や参謀といった役割を担っていたわけでもありません。そこで今回は、"軍師の本来の姿”について紹介したいと思います。
戦国武将は縁起を担いだ
画像:織田信長の肖像(大雲院)
有能な大将ほど、周到に用意してから敵との本戦に挑んでいたことが史料を見てもわかります。
たとえば、信長は事前に大砲積載の大船(九鬼水軍)を製造したり敵城の周辺に砦を築いて攻囲したり、敵の逃げ道や敵の援護部隊が通るルートを塞いでおいたり、ワイルドで大胆そうに見えて実は意外と慎重だったんです。
なかには、後先考えずに無茶な合戦で出世した武将もいますが、大抵は計画ありきの合戦でした。そして、合戦の日時や出陣のタイミングを決める手段として「軍配者」が重宝されていました。
この軍配者が、戦国時代における軍師の位置づけになります。軍配者の役割は、天文学や陰陽道などの占術、兵法や統計といった学術を用いて「縁起の良い日」や「縁起の良い方角」などを導き出し、主君にアドバイスしていました。
いつ出陣すればよいか、どの方角から攻めるべきか、など災いを回避するために軍配者の"占い"を起用していたんです。つまり、戦国時代の軍配者=軍師とは、「占い師」の要素が濃かったんですね。
兵力や武力といった直接的な要因の他にも、出陣のタイミングや進軍する方角、陣地の場所や合戦を行う日時など、「吉凶」や「縁起」といった"運"も勝敗を左右する要因と考えられていたわけです。
しかし、一般的に認知されている戦国時代の軍師といえば、黒田官兵衛や山本勘助など戦場でバリバリ戦う武将ですよね。結論を言ってしまえば、彼らは軍配者ではなく「家臣」という位置付けに過ぎませんでした。
なぜなら、どの資料を見ても軍配者として名前が記されていないからです。では、なぜ武将である彼らが「軍師」と呼ばれるようになったのでしょうか。また、戦国時代の軍配者とは、どのような人物だったのでしょうか。