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幕末のワイルド“スギちゃん”高杉晋作の生涯はマンガのように波乱万丈だった?(後編)

幕末のワイルド“スギちゃん”高杉晋作の生涯はマンガのように波乱万丈だった?(後編)


画像:高杉晋作像(東行庵の敷地内)

さて、ここまで高杉晋作の生い立ちや人物像、騎兵隊の発足など、幕末・明治維新という時代の変革期に晋作が関わった出来事や人物を確認しました。

後編では下関戦争における連合軍との交渉や長州征伐、吉田松陰が晋作に送った手紙や高杉晋作の名言をチェックしていきましょう。どのような信念を抱き、27歳の生涯を生き抜いたのでしょうか。

前編はこちら↓

幕末のワイルド“スギちゃん”高杉晋作の生涯はマンガのように波乱万丈だった?(前編)

 

  高杉晋作、監禁される


画像:TheCivilWar「アメリカ戦艦ワイオミング号による下関砲撃」
www.navyandmarine.org/ondeck/1863shimonoseki.htm

下関事件で壊滅的なダメージを受けた長州藩は、晋作のプランで奇兵隊を発足し、アメリカ・フランス連合軍の上陸に備えて関門海峡の防衛に徹していました。

しかし、晋作は教法寺事件の責任を負って発足から3ヵ月で奇兵隊の総督を解任されます(1863年10月27日)。その4ヶ月後に脱藩し、処罰として野山獄にて監禁。(1864年3月6日)

7月24日に野山獄から自宅に移り、藩の監視下に置かれて謹慎生活。この際も、晋作を可愛がっていた毛利敬親の配慮により自宅での謹慎へと罰が軽くなったとか。

10年の休暇を許されたのに3ヵ月で仕事に復帰し、藩のピンチだからと奇兵隊を発足して責任者になったと思えば3ヵ月で解任。すぐに脱藩で捕まって罪人生活。波乱万丈ですね・・・。

そんななか、徳川幕府は9月2日に「長州征伐」の決行を表明し、長州藩の消滅に向けて本格的に動き出しました。連合軍の防衛で手いっぱいの長州藩にとって、かなりマズい状況になったのです。

つまり、「外国との戦い」に備えている状況で「幕府が攻めてくる」という最悪の事態。しかも、幕府軍は総勢15万人。さらに、アメリカ・フランスはイギリスとオランダまで加わってカオスな状況でした。

ついに、悲劇が起きます。 9月5日、アメリカ・フランス・イギリス・オランダ連合軍の攻撃が始まってしまいます(四国艦隊の下関砲撃事件)。もちろん、長州藩は惨敗。たった4日で占領され、死滅は目前。

もはや打つ手がなくなった長州藩は、再び晋作を呼び戻すのです。毛利敬親は晋作の謹慎を解き、長州藩の上層部は「ピンチだから話をまとめてきて」と和睦交渉&喧嘩の仲裁を晋作に命じました。

24歳の晋作には、かなり荷が重かったと思いますが・・・。

  交渉人、高杉晋作


画像:アーネスト・サトウ(横浜開港資料館)

交渉の当日(9月8日)、晋作は宍戸刑馬-ししどぎょうま-(長州藩の家老・宍戸親基の養子という設定)と名乗り、伊藤を引き連れアメリカ・フランス・イギリス連合軍の戦艦ユーリアラス号に乗船します。

そして、キューパー司令官との交渉にあたりますが、敗戦側という不利な立場にも関わらず晋作は傲然-ゴウゼン-とした(ふてぶてしい)態度で話を進めていきました。

まず、晋作は長州藩の上層部から預かった「講和書(和解書)」を連合軍に提出し、これを見たキューパーは「この書面には降伏すると書いていない」そう言って訂正を要求します。

晋作は一歩も引かぬ物腰で、「我々は負けたわけではない。あくまで和睦の話し合いであって降伏を認める話し合いではない」と反論。大胆不敵とは、まさにこのこと。

「ミスター宍戸、まだ連合軍と戦うのですか?」

「そちらの陸上部隊は多く見積もっても3000人。長州は20万人の兵が待機しているぞ」
(もちろん、はったり)

「嘘をついてはいけませんよ、ミスター宍戸。あなた方は負けたのです」

「ならば上陸戦で決着をつけるか?お互い犠牲を出さないために今回は和睦の道を選んだのだ」

これを聞いたキューパーは「ジャパニーズジョークか?」と大笑いしたそうで、この日は2日間の休戦を決めただけで話し合いは終わり、交渉は次回に持ち越されました。

交渉に通訳として立ち会っていたイギリスの外交員アーネスト・サトウは、堂々たる態度でキューパーとやりとりする晋作の姿を見て「まるで魔王のようだ」と言ったそうです。

2日後に二回目の交渉が行われましたが、晋作と伊藤は交渉の場に現れませんでした。

外国と和解すると知った攘夷派が「売国行為だ!ぶっ殺してやる」と騒いで晋作の命を狙おうとしたからです。攘夷派の勢いに押された長州藩の上層部は「交渉は晋作の独断で始めたこと」と言い逃れ。

晋作の代わりに長州藩の幹部が交渉にあたりましたが何一つ話が進まず、「トップ(藩主)の毛利敬親を出せ」とキューパーに要求される始末でジタバタの状態。

なにがなんでも毛利を出すわけにはいかない長州藩は晋作と伊藤の居場所を探し、三回目の交渉に出向くよう説得しました。また、長州藩の上層部は焦っていました。

徳川幕府が長州征伐に動き出した状況で、外国と戦っている場合ではないと切羽詰まっていたのです。なるべく早いうちに連合軍との和睦をまとめたい上層部。

また、長州藩に対する幕府の攻撃が迫ってくると、これまで攘夷派だった者たちが「反幕府(倒幕)」へと考え方が変わっていくのです。つまり、敵は外国ではなく徳川幕府だ!と。

そんなこんなで三回目の交渉がやってくるとキューパーは晋作に5つの条件を要求し、うち4つは晋作も承諾しましたが、「彦島の租借」については断固として拒否します。

  交渉をまとめた晋作の手腕


画像:彦島

彦島は下関の最南端に位置する小さな(11.22平方㎞の)島。租借とは、合意のうえで他国の領土の一部を借りること。つまり、「和睦の条件として彦島を貸せ」と連合軍に要求されたわけですね。

西洋の植民地になって他国から支配を受けている上海(中国)を現地で見たことのあった晋作は、「たとえ一部であっても植民地だけは阻止しなければ」と拒否の姿勢を守り通しました。

とはいえ、キューパーも簡単には引き下がりません。すると晋作は、日本の成り立ちを語り始めるのです。

「クニノトコタチノミコト降り立ちイザナギ、イザナミの二つの神が現れ天沼矛の先から落ちた雫が島となり淡路国が生まれ・・・」、そばにいた伊藤は晋作の意味不明な言動に目を丸くしてチンプンカンプン。

アーネスト・サトウも通訳が難解でキューパーは「気でも狂ったか?」とわけがわからず“why?”って感じ。それでも空気を読まずに「アマテラスオオミカミ訪れニニギノミコト天孫降臨・・・」と神話を語り続ける晋作。

ついに、お手上げ状態になったキューパーは彦島の租借を条件から外し、5つだった条件は4つとなり、連合軍と長州藩の和睦が9月14日に成立しました。

この件がきっかけでイギリスは長州藩に好感をもつようになります。

イギリスは幕府と交流がありましたが、曖昧な態度や約束を守らない幕府に対してイギリスは不信感を抱き始めていた頃で、そこにきて長州の“潔さ”は好印象だったのかもしれませんね。

ところで、なぜ晋作が交渉役に選ばれたのでしょうか。晋作を選任したのは長州藩13代目の藩主・毛利敬親ですが、敬親は晋作が子供の頃から可愛がっていました。

脱藩の常習犯だった晋作が罪に問われ監禁されるたびに「あいつは許してやれ」と寛容な処分を下しており、型破りでクレイジーな性格の中に秘められた晋作の器量の大きさを理解していたのでしょう。

だからこそ、ここぞというピンチな場面で晋作を交渉役に抜擢し、連合軍の言われるがまま“御用聞き”になることなく話を上手くまとめてくれると期待していたのではないでしょうか。

事実、彦島の租借についてはチャラにしていますし、和睦交渉がきっかけでイギリスとのパイプをもつこともできました。ただ単に破天荒なわけではなく、晋作には本質を見極める能力が備わっていたということです。

イギリスとのつながりは、のちに勃発する第二次長州征伐で大きな力添えとなります。

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