利根川の治水プロジェクトを成功させた「伊奈忠次」の計り知れない功績
画像:伊奈忠次の像(備前堀道明橋)
さかのぼること416年前。大規模な治水工事で江戸(東京)を洪水から守り、利水工事によって関東平野の新田開発を成功させ、江戸幕府の財政基盤の地固めに大きく貢献した人物がいます。
戦国時代から徳川家康に仕え、江戸時代には武蔵小室藩の初代藩主と関東の代官頭を兼任し、治水や新田開発の他にも農作物の栽培方法を農民に推奨するなど、多大な功績を残した「伊奈忠次」です。
なかでも忠次の業績として特筆すべきは利根川の治水事業と利水工事です。家康の厚い信頼を受けて大規模な土木プロジェクを成功させた伊奈忠次とは、どのような人物だったのでしょうか。
伊奈忠次の功績
画像:狩野探幽・画「徳川家康」(大阪城天守閣)
豊臣秀吉が小田原征伐を終えると家康は関東への移封(国替え)を命じられますが、これに徳川の家臣らは納得できず、国替えを考え直すよう家康に進言しました。
なぜなら、当時の関東は利根川の氾濫によって至る所に湿地や沼地が広がっており、水没や陥没など荒れに荒れた土地だったので移動後の安定を考えると厄介な土地だったからです。
ところが、伊奈忠次は関東の立地に将来性を感じ、将来を見据えて拠点にするなら江戸(現在の東京)が適していると家康に進言。そして1590年8月、家康は関東に移封し、江戸城に入城します。
忠次は武蔵国の小室(埼玉県北足立郡伊奈町)に1万3千石を与えられ、代官頭に任命されます。この頃の家康は80名の代官を従えており、4人の代官頭がいました。
その筆頭として忠次は様々な功績を残していきます。
忠次は小室の検地(領主が田畑の状況を調査すること)を行うなかで戦乱により困窮した農民たちを目の当たりにし、江戸の財政基盤を固めるには農民の暮らしを安定させることが急務と考えました。
まずは沼地や湿地に田畑を開発(新田開発)し、それに伴う治水・利水工事にも着手。
農民たちは新田開発や治水工事を手伝うことで土地がもらえたり年貢が免除されたりしたので積極的に協力し、水害に悩まされていた小室に堤防が築かれたことで農作も安定しました。
その堤防跡は備前堤として今も跡地が残されています。また、備前堤によって水路が変わった水は東部へ流れ込み、ほかの地域の新田開発にも役立ったのです(利水)。
さらに忠次は、農民たちの生活を安定させるために木炭の製造(炭焼き)や蚕の肥育(養蚕)、塩の生産(製塩)などの方法を教え、寺社・僧たちの保護にも尽力しました。
そうした忠次の働きは農民から絶大な支持を得て、忠次を神仏のように敬っていたそうです。本来の目的である江戸の財政基盤の地固めに貢献し、より一層、忠次に対する家康の信頼は厚くなります。
利根川の水を治めよ!
武蔵国の新田開発や治水は忠次にとって手始めであり、江戸を安定させるためには利根川そのものの治水が急務であると考えていました。
今では高層ビルや商業施設が立ち並ぶ華やかな東京も、江戸時代以前は利根川が氾濫し、福川(埼玉県)から流れ込む濁流によって土砂災害や洪水に苦しめられ、田畑は流され建物が倒壊するなど不利益な土地でした。
畑や田んぼを維持できなければ財政の柱となる米や農作物の栽培・収穫が安定せず、徳川家の財政基盤を築くうえで利根川の治水は不可欠だったのです。
そして家康は、利根川と荒川の治水を忠次に命じます。
1594年、利根川の支流の一つである会の川を川俣(栃木)で塞き止め、
流れを東(下方)に向かわせ、
1596年に権現堂川(埼玉と茨木の境界を流れていた川)の開削を開始。
こうして、まずは利根川に新しい流れを作りました。
次に利根川の治水工事の要所となる中条堤(埼玉県熊谷市)を福川の流れに沿って築き、
福川と利根川の合流地点(酒巻と瀬戸井)の川幅を狭くしました。
それまで利根川の上流から江戸に流れ込んでいた洪水が中条堤と川幅を狭くした合流地点に当たり、対岸に築いた文禄堤に塞き止められ福川へ逆流し、ダムのような仕組みをつくったのです。
また、関東の各地で行っていた治水を統一化するために江戸城を中心としたネットワークを構築し、近隣の村と村が洪水などの情報を交換し合い、連携をとりながら治水工事を行う仕組みを作りました。
ちなみに、利根川は東京都、群馬県、千葉県、茨城県、栃木県、 埼玉県の1都5県を流れる川で、流域面積が16,840km2の日本で最大の河川です。
頻繁に洪水が起きていた"暴れ川"(洪水や水害が特に多い河川)を塞き止めるという治水は、当時の技術や労力を考えると想像を絶する工事だったに違いありません。
利根川の水の流れを変えて江戸を洪水から守ることに成功した忠次の功績は計り知れないでしょう。