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なぜ豊臣家は滅びたのか?戦国時代の終末期「豊臣政権の崩壊」と「関ケ原の戦い」 Vol.7

なぜ豊臣家は滅びたのか?戦国時代の終末期「豊臣政権の崩壊」と「関ケ原の戦い」 Vol.7


画像:関ケ原古戦場(岐阜県不破郡関ケ原町)

山形で直江兼続が最上義光と戦っている頃、10月21日、午前8時に岐阜県不破郡関ケ原町では関ケ原の本戦が始まりました。開戦直後は順調に戦っていた西軍でしたが、次第に状況は悪化します。

地形的に有利な場所で西軍は戦っていたので応戦できていましたが、宇喜多秀家や石田三成、小西行長や大谷吉継の部隊が自分の持ち場で戦っているだけで、西軍としての連携はとれていませんでした。

一体感が全く無い西軍に対し、違う部隊が多方面から同時攻撃したり包囲したり、兵を補充するように入れ代わり波状攻撃を仕掛けたりするなど、連携がとれて上手くとれて機能している東軍。

戦況を大きく変えたい三成は、ほかの場所で戦っていた島津義弘に援軍を求めるため使者を出しましたが、島津は「使者が馬から降りずに無礼な態度で用件を伝えてきた」という理由で合流を拒否されます。

それは仕方ないと諦めた三成。なぜなら、とっておきの作戦があったので不利な状況とは思っていませんでした。ところが、その計画は実現せずに終わってしまうのです。

  小早川秀秋の裏切り


画像:小早川秀秋シリーズ・実像に迫る5(著・黒田基樹)

三成の計画では、西軍のなかでも兵力の高い小早川秀秋や毛利秀元、長宗我部盛親ら計4万7千人が東軍の後方と両側面から襲い掛かれば一気に戦況が有利になると考えていました。

小早川秀秋の軍隊・・・1万5千人が松尾山で待機
毛利秀元の軍隊・・・1万5千人が南宮山で待機
長宗我部盛親の軍隊・・・6600人が栗原山で待機

参考:日本戦史-関原役

しかし、小早川は動き出す気配がなく、毛利と長宗我部は出陣しましたが合戦に参加できず、あっという間に西軍はピンチ。なぜ、このような事態を招いてしまったのか・・・

その理由は、西軍のなかに「裏切者」がいたからです。しかも、東軍に寝返った武将は一人や二人ではありません。なんと、6人もの武将が西軍を裏切ってしまうのです。

まず、最初に裏切ったのは小早川秀秋。すでに関ケ原の本戦が始まる前、密かに小早川は西軍から東軍へ寝返ることを家康に約束しており、合戦には参加せず松尾山で静かに待機していました。

この様子を知った家康は松尾山に向けて威嚇射撃します。これは家康が小早川に対して行った催促で、「早く山を下りて西軍を攻撃しなさい」というサインでした。

小早川は1万5千人の兵を率いて松尾山を下り、藤堂高虎・京極高知の部隊と合流し、西軍の大谷軍を攻撃しましたが、必死の抗戦により松尾山の麓まで小早川の兵を押し返します。

ところが、脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱も東軍に寝返り、それら計4200の兵が小早川に加勢して大谷軍を攻め込み、もはや応戦不可能となった大谷は撤退に追い込まれました。

  大谷吉継の最期


画像:太平記英雄傳「大谷吉継之錦絵」(東京都立図書館)

この裏切りによって大谷軍は戸田勝成が戦死。家臣の湯浅五助は「おみかた総崩れ(味方が裏切って西軍が不利な状況)」と大谷に伝え、大谷は「もはやこれまで・・・」と自害を決意します。

自害する前、「おのれ秀秋、道理に外れた残忍な心、3年のうちに祟ってやる」と、深い恨みの言葉を残したという説もあります。そして、湯浅に「わしの首を誰にも渡すな」と命じました。
湯浅は大谷の頭部を白布で包み、それを土中に埋め、後を追うように自害しました。また、大谷が自害する前に家臣の平塚為広も戦死しています。

三成が盟友であれば、平塚は大谷と共に戦国を乗り越えてきた戦友。平塚は死ぬ間際、大谷に対して次のような言葉を残したと言われています。

名のために 棄つる命は惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば
(名誉のため、お前のために捨てる命は惜しくない。だって人は、いつか死ぬのだから)

「どうせ死ぬのなら、大義や友のために命を捧げる」と呟いた平塚に、大谷は「契りあれば、六つの衢(ちまた)に待てしばし。遅れ先だつことはありとも」と返したそうです。

六つの衢とは、仏教の教えにある「地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道」という六つの道。これを「六道」と言いますが、つまり、死んだ後の行き先のこと。

「友よ、六道で俺が行くまで待っていてくれ。俺も必ず、お前のもとへ行く。約束する」そう吉継は言いたかったのでしょう。権力や縄張り争いのために戦うことが正義とされていた戦国時代。

これほどまで友情を重んじた武将が他にいたでしょうか。利害の結びつきではなく、友のために戦って死んだ平塚。大谷も三成との友情を選び、主君の家康に背き、西軍として関ケ原へ出陣しています。

参考:なぜ豊臣家は滅びたのか?戦国時代の終末期「豊臣政権の崩壊」と「関ケ原の戦い」 Vol.4

ちなみに、小早川の家臣・松野重元は、「裏切りは武士として恥ずべき」と大谷軍への攻撃を拒否し、関ケ原の本戦から離脱しました。関ケ原の戦いには、いろんな人間ドラマがあるんですね。

  関ケ原の戦い、終わる

画像:吉川広家之肖像(東京大学史料編纂所)

関ケ原の本戦における最後の裏切者は吉川広家でした。

毛利秀元は家臣の安国寺恵瓊と南宮山を出陣し、長宗我部盛親や長束正家も栗原山から出陣しましたが、先頭を進む吉川の部隊が動かないという“トラブル”が発生。

毛利軍と長宗我部軍は立ち往生するはめになり、その結果、本戦に参加できなかったのです。もちろん、これはトラブルではなく吉川が意図的に行ったこと。

毛利軍の後方から進軍していた長宗我部は、進む気配のない毛利に「なぜ止まっている?」と聞きます。

まさか家臣の吉川が裏切っているとは思わず、状況が把握できない毛利は苦し紛れに「兵たちに弁当を食べさせているから待ってくれ」と答えました。

この出来事は「宰相殿の空弁当」として歴史に残りましたが、秀元の官位(官職名で宰相という意味)に由来し、本当は弁当を食べていないことから“空弁当”となったわけです。

小早川や4人の武将が裏切り、毛利軍と長宗我部軍が参戦できない状況下で、東軍は宇喜多秀家の部隊を集中的に攻め、宇喜多や石田三成の部隊は応戦しきれずに敗北し、逃走。

西軍は8万7千人でしたが戦闘に参加したのは3万人ほどで、4倍に膨れ上がった東軍に勝てるはずもなく・・・西軍は負けて当然の合戦だったのです。

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