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明治維新に命を懸けた「西郷隆盛」最後の戦い「西南戦争」とは?【中編】

画像:1877年の田原坂「近世から近代へ」日本の歴史9(朝日百科)

【前編】では西南戦争の発端から熊本城での包囲戦について紹介したが、【中編】では「田原坂の戦い」をクローズアップして西南戦争の経緯と戦況を確認してみたいと思う。

【前編】はこちら↓

明治維新に命を懸けた「西郷隆盛」最後の戦い「西南戦争」とは?【前編】

熊本城の包囲戦~二重峠の戦いまで

画像:熊本城(熊本城フォトコンテスト2018)

(1877年)西南戦争の発端~二重峠の戦いまで

1月30日 薩摩の私学生が政府軍の火薬庫を爆破

2月5日   明治政府に呼び出され西郷は事件の重大さを言及される

2月6日   西郷は私学校を「薩摩軍本営」に変更し、明治政府と対立することを表明

2月9日   政府軍の総司令官・山県有朋は各地の政府陸軍に熊本への出動を命令

2月15日 別府晋介が率いる薩摩軍の先発隊が熊本城を目指し出発

2月20日 先発隊は熊本城に入る手前の川尻で政府軍の砲撃を受けたが交戦し、勝利

2月22日 城の東側・白川の河岸で薩摩軍・池上四郎の部隊は政府軍の砲撃を受ける

(政府の援軍が横浜・京都から博多に上陸。熊本に向けて南下)

2月23日 政府の援軍・乃木希典が率いる小倉第14連隊500人に別府隊が植木市で勝利

2月25日 西郷は3000人を熊本城に残し、残り全軍は政府の派遣部隊の阻止に向け北上

3月18日 二重峠の戦いで薩摩軍は勝利。政府軍・第一小隊長の佐川官兵衛が戦死

 

1877年2月15日が薩摩軍の先発隊が北上を開始し、植木市で政府軍の小倉第14連隊に勝利すると、西郷は3000の兵を熊本城に包囲させ、残り全軍で政府の派遣部隊を目指し北上した。

植木市で勝利した薩摩軍に「政府軍が高瀬(玉名市)に集まっている」との報告が入り、2月27日に高瀬を攻略するために向かった桐野利秋ら2800の兵が政府軍と衝突する。

田原坂の戦い開戦

画像:「近世から近代へ」日本の歴史9(朝日百科)

玉名市での戦いは増強する政府軍に圧倒され、この日の桐野隊は撤退を余儀なくされる。薩摩軍は兵力を消耗するのを避け、進軍ではなく防御戦へと作戦を変えた。

山鹿(福岡と熊本の県境・山鹿市)~田原(熊本県田原市)~吉次峠(玉名郡・吉次公園)~河内海岸(熊本市河内町)この区間40kmにも及ぶ一帯に薩摩軍は防衛線を築いた。

なかでも、田原~吉次の区間には石垣や土袋で外壁を築き、防御するための背の高い壁も構築した。しかし、鹿児島から熊本に進軍していた薩摩軍は、長期戦になると食料の確保が問題になる。

当然、食料が尽きれば戦うことはできない。政府軍は、薩摩軍の食料が尽きるまでに防御線を突破しようと考えていた。3月3日、政府軍は田原坂と吉次峠の攻略に向けて進軍を開始した。

4日、吉次峠に攻め込む政府軍を薩摩軍は撃退。薩摩軍は武士の出身(士族)が多かったので斬り込み(薩摩・斬りこみ隊)を得意としていた。接近戦では圧倒的に薩摩軍が有利である。

吉次峠での交戦を中断し、政府軍はターゲットを田原坂に絞る。また、薩摩軍の斬りこみに応戦できるように、政府軍は腕利きの士族出身者(旧会津藩士など)を集めて”抜刀隊”(新撰旅団)を結成した。

一方の薩摩軍も政府軍の攻撃に備えて策を打つ。田原坂の両側は高い土手になっているのだが、土手の上から政府軍の兵士に銃撃を行い、混乱に乗じて斬り込み隊が突撃した。

画像:田原坂激戦之図(鹿児島新報-小林永濯画)

この作戦により、しばらくの間は薩摩軍が優勢であったが、次々と政府の援軍が田原坂に駆け付け次第に薩摩軍は不利になっていく。さらに、政府軍の猛攻は続く。

3月15日、薩摩軍は田原坂と吉次峠の中間に設けていた要所・横平山を政府軍に奪われた。

この頃の政府軍は抜刀隊のほかにも最新の武器を仕入れており、各地から派遣される陸軍で兵力は拡大。そして何よりも、政府軍は情報の伝達において薩摩軍に勝っていたのである。

その手段とは電報。当時は手紙や伝言を預かった人が現地まで行かなければ情報を伝えられなかったのだが、明治政府は電報を用いて各地の基地局に情報を送っていたのだ。

電報の通信(電信)方法は「モールス信号(音の長さ)」で情報を発信し、この信号を通信掛と呼ばれる解読者が文字に変換したあと、関係各所に届けるという流れだった。

ちなみに、日本で電信が開始されたのは1869年12月。1875年には熊本に電信局が配置され、1876年には明治政府も電信を取り入れて各地の要所に設備している。

田原坂の戦いでも政府軍は戦況や作戦を各地の部隊に電報で伝えており、博多に上陸した警視隊や別動隊を熊本に南下させる一方で、島原湾・八代海からの上陸作戦も同時に決行していた。

政府軍の上陸作戦

3月19日、政府軍の別動隊は島原湾から宇土半島に上陸し、衝背軍は八代海の州口海岸に上陸。別動隊・衝背軍は海外に守備していた薩摩軍を撃退しながら、その日のうちに八代市を占領した。

画像:Google.map

政府が電報を利用していたことは事実で、この手段を用いて田原坂の政府軍・主力部隊、熊本城で籠城する谷少佐に、八代を占領したことが速やかに伝わっていた。

勢いにのった政府軍は3月20日に田原坂の総攻撃を開始。薩摩と政府の勝敗を分けたのは”天候”だった。17日間に及ぶ田原坂の戦いは、ほとんどの日が雨だったという。

悪天候で足元はぬかるみ、霧や雨による視界の悪さ、肌寒さなど悪条件が揃っていた。政府軍は”天運”とばかりに田原坂の南から東に移動し、雨が降る早朝に薩摩軍を目掛けて奇襲攻撃を仕掛ける。

東からの攻撃はないと油断していた七本柿木台場で待機していた薩摩軍は奇襲を受けて総崩れとなり、それを皮切りに薩摩軍の敗走は連鎖していく。

薩摩軍の銃は旧式(エンピール銃)で薬きょうに火を付けなければ発砲できないし、火が付いても不発になることが多く、湿気が多い雨の日は使い物にならない。

政府軍は最新の銃(スナイドル銃)で、火は不要。薩摩軍の斬り込み隊は奇襲によって得意とする接近戦に持ち込めなかったし、政府軍も抜刀隊を導入していたので応戦できた。

雨と増軍という条件が整い、政府軍の奇襲攻撃は見事に成功したのである。3月20日、田原坂の戦いは政府軍の圧勝で幕を閉じ、薩摩軍は追われるように敗走した。

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