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凡人じゃ思いつかない織田信長の人心掌握術。戦国武将は土地よりも「茶碗」を欲しがった?

凡人じゃ思いつかない織田信長の人心掌握”術”。戦国武将は土地よりも「茶碗」を欲しがった?

画像:織田信長の肖像(東京大学史料編纂所)

尾張三英傑の先陣をきった織田信長。室町幕府を滅ぼし、天下統一への道を開き、志半ばに本能寺で討たれたが、最期まで天下取りの野望を抱き、第六天魔王の異名で恐れられた戦国武将である。

武闘派で破壊的、下剋上の申し子で”革命児”というイメージが強い信長だが、マーケティングやブランディングの先駆けで人心掌握の能力に優れた人物であったことは広く知られていない。

そこで今回は、天下取りの裏で信長が行っていた”人心掌握の戦略”に目を向けてみよう。なぜ天下統一の道を切り開けたのか、その背景には、信長のビジネスセンスが深く関わっっている。

どのように行動を起こさせるか

画像:足利義昭像(等持院霊光殿)

1573年に室町幕府の将軍・足利義昭を武力でねじ伏せたとき、いっそのこと殺すこともできた。しかし、信長は義昭を追放という形で表舞台から排除している。

将軍を殺害したことにより世間で「不信感」「批判」が生じるのを避け、まだ始まったばかりの天下取りの道を弊害するような”きっかけ”は作りたくなかったのである。

当時の信長は、「世間」「外聞(人聞)」という言葉を頻繁に用いている。外聞とは噂や評判、または世論のことであり、どのように他人から見られているか、も同じ意味をもつ。

義昭を攻めたときにも朝廷や京都の外聞を気にしていた。秩序を乱す乱暴者のイメージがあるが、出陣に際しては必ず家臣を集めて評議し、独断で物事を決定することは少なかった。

後世に発見された毛利輝元宛てに出した信長直筆之書状には、「義昭のもとで天下静謐(争いのない世の中)を維持する役割を担いたい」といった意思が示されている。

つまり、当初、天下統一という考えはなかったことになる。しかし、一方では武力によって戦国時代を牽引したいとも思っており、その過程で世論や評判、さらに政治的なルールにも目を向けながら動いていた。

そして、織田家に仕える家臣の統率は「人心掌握」で忠義をコントロールしている。乱世で生き抜くうえで裏切りや謀略は日常茶飯事。無理やり忠義を誓わせたところで心変わりすれば意味がない。

ならば「その者の心に忠義を植え付ける」ことが最善の方法である。つまり、「何があっても、この人についていこう」と自分自身で忠義の自覚をもてば、命を懸けてでも主君についていくというわけだ。

そのために必要だったのが人心掌握であり、「ついていきたい」「忠義を尽くしたい」そう思われるような人物像を信長は演じなければならなかった。あの濃いキャラクター性は、セルフプロデュースによってつくられたものだったのだ。

ブランディングによる人心掌握

画像:茶碗と茶筅(©D-matcha store)

信長は武闘派なイメージな一方で、文化的な一面もある。たとえば、現代の相撲大会は信長が安土に力士を集めて競い合わせたことがルーツであり、弓取り式や行事なども、このときに由来している。

そして、「茶」も信長が文化的な価値を見出した。信長が「茶の湯」を好み、「茶人」として茶会を催し、「茶器(茶道の道具)」を集めていたことは有名な話である。

しかし、これは趣味ではなかった。セルフプロデュースの策であり、人心掌握のためのマーケティングに用いた「餌」だったのである。当時の武将たちは領土よりも茶器を欲しがった、という話もあるくらいだ。

義昭を京都に追放したあと、真っ先に信長は「茶道具狩り」を行っている。価値の高い茶碗や茶道具を没収し、名器と呼ばれる茶碗のほとんどが信長のもとに集まった。

当時、武功を挙げれば領地を褒美として与えられていたが、信長は違った。手柄をたてたり気に入った家臣には茶器をプレゼンとし、茶会に呼んだり茶道を教えたりしていたのだ。

領地には限りがある。もっと領地を増やしたいと思う武将は力づくで奪ってようになるだろう。そのたびに合戦が起きれば天下取りの足手まといになる。そこで考えたのが、領地に変わる褒美だった。

「茶道具とは素晴らしい芸術品だ。この茶碗なんて、どれだけ金を積まれても譲れないな」と、来る日も来る日も茶碗の価値を部下たちに言い聞かせた。

そして、次は、価値観を刷り込んだ。「俺の部下であれば茶碗の価値がわからないはずがない。この素晴らしさが分かるに違いない」そう言っては、家臣たちの前で茶器をお披露目していたという。

さらに今度は、大勢の人を集めて茶会を催し、収集した茶器のコレクションをお披露目しては「素晴らしい。こんなに価値の高いものは、この世に茶器以外ない」などと言ってブランディングしていく。

古来より天皇や上級の茶人が茶を嗜んでいたという既成事実もあったし、裏付けも充分だったのでブランディングするには都合が良かった。かの有名な千利休も信長に仕えた人物の一人。

信長に茶道を教える一方で、茶器の鑑定人としての役割もあった。信長が「価値のある茶器」だと言い、それに対して千利休が「間違いない」とお墨付きを与えれば、価値が倍増するのである。

事実、国宝や重要文化財に指定された茶器が美術館や寺に保管されているが、ほとんどが安土桃山時代のもの。この頃に、もっとも茶が盛んだったと言われており、信長との関係は実に深い。

茶道の開祖と称される僧侶の村田珠光は、作法や礼儀を重んじる「侘び茶」を好んでいた。次第に珠光の茶道は富裕層に広まり、皮肉なことに茶器が高い価格で取引される。ちなみに、珠光の弟子が千利休である。

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