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なぜ大塩平八郎は「大塩平八郎の乱」を起こしたのか?平八郎が成し遂げたかった2つの目的

なぜ大塩平八郎は反乱を起こしたのか?平八郎が成し遂げたかった2つの目的


画像:大塩平八郎像(大阪城天守閣-菊池容斎作)

1837年2月19日に起きた「大塩平八郎の乱」。この出来事は、幕府側の役人であった大塩平八郎が”飢え”に苦しむ町人や農民の代弁者となり決起した反乱である。

1833年を過ぎた頃からの江戸は米の収穫が通常の半分以下で農民や町人は飢えに苦しんでいた。天保4年(1833)~天保10年(1839)にわたり続く「天保の大飢饉」である。

米不足が続いても決められた量の年貢(米)を幕府に納めなければならず、収穫が半分以下なのだからいつもと同じ年貢を納めれば農民の手元には米が残らず食べていけない。

しかも、米を買おうとしても値段が急激に上がっていて買いたくても農民や町人は買えない状況。

飢え死にや病気など人々の生活は限界を超え、やがて村や城下町では百姓一揆が頻繁に起きるようになった。米の不況を訴える暴動が年間100件を超え、その頃の江戸は荒れに荒れていたのだ。

そして、大飢饉は大阪にも被害を及ぼす。裕福な商人が大阪の米を買い占め、それを江戸に送っていた。この悪しき事態に大阪の奉行所は何も策を講じず、さらに町民の不満は膨れ上がっていった。

  大塩平八郎の決意

平八郎は江戸の大飢饉が大阪にまで被害を及ぼしていることを大阪・東山奉行所の跡部良弼(アトベヨシスケ)に直談判し、自身で考案した救済計画の提案書を提出する。

平八郎は大阪町奉行の元与力(幕府の元役人)だったため、コネを使って跡部に相談したわけだ。しかし、「身分をわきまえない愚か者」と注意を受け、聞き入ってもらえなかった。

人々の暮らしと向き合わない無能で不道徳な役人や悪しき商人の行動に怒りを覚えた平八郎は町人の代弁者になることを決意し、1837年2月19日に反乱を起こす。

まず平八郎は自分で所蔵していた5万冊の書物を売り払って600両(現在の価値で3,500万円ほど)に替え、およそ一万人の貧困に苦しむ町人に一朱金(現在の価値で4,000円ほど)ずつを配った。

その際、「四海困窮、天禄永終」から始まる文書を金と一緒に渡し、幕府や商人に天罰を与えることを知らせ、反乱への参加を密かに呼び掛けた。

四海困窮、天禄永終とは中国の書物にある”戒めの言葉”で、「民が困窮しているのは国のトップの責任だから、この元凶を治めなければ苦しみは永遠に続く」といった内容の文書を記している。

さらに計画として、2月19日に西町奉行の堀利堅(ホリイトシタカ)が跡部の案内で町見物するため、留守になる16時を目安に西町・東町の奉行所へ攻撃を仕掛ける作戦を立てた。

そして次に、奇襲によって奉行所が混乱している間に町に火を放ち、金持ちの商人を襲い、金銭や穀物を奪って町人たちに分け与えようと考えたのである。何もかも計画通りに進むはずだった。

ところが決行の前日(2月18日)、仲間の平山助次郎と吉見九郎右衛門ら数名が裏切り、奉行所に密告したせいで全ての計画がバレてしまう。

  大塩平八郎の乱、始動

計画を知られ焦った平八郎は予定を変更し、16時を待たずに反乱を開始した。午前8時に自宅に火を放ち、それが”始動の合図”となり、近隣の農民およそ100人が平八郎のもとへ駆けつける。

日頃から万が一の場合に備えて合図を打ち合わせしていたため、平八郎の自宅が燃えていることを知った近隣の住民は反乱の合図だと気づき、急いで駆けつけたのである。

こうして集まった反乱分子は「救民」の旗を掲げて車輪のついた大砲を引き、手あたり次第に砲弾したり放火したり天満の町(現在の大阪市北区)を火の海にしながら昼あたりに船場町(北船場)へ到着。


画像:大塩平八郎の乱「救民」の旗レプリカ(おもしろ博物館ショップ)

騒ぎを聞きつけた町人も加わり、平八郎に加勢する団体は300人ほどになっていた。次々と金持ちの商人を襲っては金や穀物を奪い、住民に配っていく。

西町・東町の奉行所は兵を引き連れて暴動の鎮圧に動き出す。平八郎に加勢する農民たちは戦闘に不慣れなため、わずか二度の砲撃を行なっただけで夕方には完全に敗北してしまった。

平八郎や反乱分子は四方に散らばり逃げたが火災は翌日(2月20日)の夜まで続き、この火事によって焼失した家屋は3400件にも及んだそうだ。

当時の世帯数が約12000件であるから、町の4分の1が消失したことになる。反乱に加勢した者は自首や自殺、逮捕など様々だったが、平八郎と息子の行方は不明のまま1ヶ月が過ぎた。

しかし、ついに3月27日、平八郎と息子が靱油掛町(現在の大阪市西区靱本町)の民家に潜伏していることが判明し、奉行所や幕府の兵に包囲される。

平八郎は潜伏していた隠れ家に火を放ち、自刃し、息子と共に命を絶つ。火薬を使って爆破したため、見つかった焼死体は判別がつかないほど無残な姿だったという。

  騒動は治まったが反響は長引いた


画像:©1954東宝

反乱の首謀者が幕府の元役人ということで、騒動は直ぐに落ち着いたが町人に与えた影響は大きかった。また、役人を辞めたあとの平八郎は名の知れた陽明学の先生だった。

中国の格式高い学問で、つまり、そのような学問の先生が起こした暴動ということは”立派な行い”だと民衆はウワサしたのである。

この口コミは全国に広がり、幕府に不満を募らせる民衆が各地で反幕府の運動を行うようになる。これらの運動に幕府が強引な措置をとったせいで、さらに反幕府の人間たちは過激になっていくのだった。

たとえば、1837年4月の備後三原の一揆や6月に起きた生田万の乱、7月の山田屋大助の乱などは規模が大きく、いずれの首謀者も「大塩」の言葉を付けた旗を掲げて騒動を起こしている。

大塩平八郎の乱は速やかに鎮圧できたが、その”使命”を勝手に引き継いだ全国の反乱分子たちが幕府を苦しめる”きっかけ”になったわけだ。

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