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三菱財閥の元祖「岩崎弥太郎」と坂本龍馬の出会い、トーマス・グラバーとの関係は?

三菱財閥の元祖「岩崎弥太郎」と坂本龍馬の出会い、トーマス・グラバーとの関係は?


画像:岩崎弥太郎之写真(近代名士-国立図書館)

岩崎弥太郎は1835年1月9日に土佐国(高知県)の安芸郡井口村(安芸市)で生まれた。もとは武家の家柄だったが、祖父母の代に地毛浪人(最下級の武士)となっている。

貧しいながらも幼い頃は英才教育を受け、21歳で江戸に渡り、安積艮斎(あさかごんさい)の塾で朱子学を学ぶ。帰郷後は吉田東洋の少林塾で勤勉し、後藤象二郎から人格や能力を認められた。

そして、弥太郎の生涯において関わりが深い人物といえば坂本龍馬ではないだろうか。2010年に放送されたNHK大河ドラマの龍馬伝でも弥太郎の若かりし頃が描かれていた。

ところで、弥太郎と龍馬は古くからの付き合いと思われがちだが、そうではない。二人が共に過ごしたのは7ヶ月ほど。まずは、弥太郎と龍馬の出会いから見ていきたいと思う。

  弥太郎と龍馬の出会い


画像:後藤象二郎之写真(近代名士-国立図書館)

弥太郎と龍馬を同郷の友や古い知り合いのように感じてしまうが、龍馬は高知市の出身で安芸市で生まれ育った弥太郎とは面識がなかった。

さらに、龍馬は17才で江戸に上京しており、ほとんど高知にはいなかったので出会うことすら難しい。二人が対面したきっかけは、土佐藩の後藤象二郎が事の始まりだと言われている。

龍馬は薩摩藩の資金援助を得て、神戸で海防(海上自衛隊と同じ)を学んだ海軍塾の生徒と共に長崎市伊良林に亀山社中を創設し、貿易の仲介や船での物資運送などを行っていた。

薩摩藩と長州藩の橋渡し役として経営は順調だったが次第に問題が山積みになり、1867年5月、後藤象二郎が管轄する土佐商会・長崎支店に資金や経営など面倒をみてもらうことになる。

このとき、亀山社中から「土佐・海援隊」へと変更している。拠点を伊良林から現在の長崎地方法務局がある場所へと移し、貿易会社というよりは薩長と土佐藩お抱えの船舶会社になった。

一方、その頃の弥太郎は後藤のもとで働いていており、弥太郎は龍馬の補佐と経営のヘルプとして土佐藩から海援隊へ出向。主な仕事は経理や財務で、これが弥太郎と龍馬の出会いだった。

弥太郎は海援隊の運営に専念したが、龍馬が暗殺されると土佐藩と海援隊は消滅。龍馬が死去したのが1867年12月のことなので、二人が出会った5月から逆算すると弥太郎が龍馬と過ごしたのは7ヶ月間。

ちなみに、海援隊の仕事は「三菱商会」に引き継がれ、その責任者を務めた弥太郎は一代で大きな財力を築き上げて三菱財閥の創業者となった。三菱東京UFJやキリンビールなど、現代の三菱グループ企業の先祖となる。

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